禎子さんが亡くなった1955(昭和30)年のヒロシマ
占領期にはアメリカによって原爆報道は制限されており、
1951(昭和26)年にサンフランシスコ講和条約が結ばれてから、
ようやく原爆被害に対する研究や報道が進み、
一般の人々にも被爆状況が知られるようになりました。
1955(昭和30)年当時は、
被爆者の死がニュースとして新聞に掲載されるなど、
「原爆症」の報道はたびたび行われ、
被爆者は次は自分ではないかという不安や、周りの人からの無理解に苦しめられました。
1954(昭和29)年3月、
ビキニ環礁で日本のマグロ漁船が
アメリカの水爆実験で被曝したのをきっかけに、
原水爆禁止を求める運動が活発になり、
原爆被害についても関心が高まり、
以後被爆者の援護に対する気運も盛り上がりを見せました。
原水爆に対する国民の高い関心は、禎子さんの死をきっかけとした、
原爆で亡くなった子供たちを慰霊するための
「原爆の子の像」建立運動の追い風になりました。 |