きかくてんを見よう
禎子(さだこ)さんが()くなった1955(昭和30)年のヒロシマ
占領期(せんりょうき)にはアメリカによって原爆報道(げんばくほうどう)は制限されており、
1951(昭和26)年にサンフランシスコ講和条約が結ばれてから、
ようやく原爆被害(げんばくひがい)に対する研究や報道が進み、
一般(いっぱん)の人々にも被爆状況(ひばくじょうきょう)が知られるようになりました。

1955(昭和30)年当時は、
被爆者(ひばくしゃ)の死がニュースとして新聞に掲載(けいさい)されるなど、
原爆症(げんばくしょう)」の報道はたびたび行われ、
被爆者(ひばくしゃ)は次は自分ではないかという不安や、周りの人からの無理解に苦しめられました。

1954(昭和29)年3月、
ビキニ環礁(かんしょう)で日本のマグロ漁船が
アメリカの水爆実験(すいばくじっけん)被曝(ひばく)したのをきっかけに、
原水爆禁止(げんすいばくきんし)を求める運動が活発になり、
原爆被害(げんばくひがい)についても関心が高まり、
以後被爆者(ひばくしゃ)援護(えんご)に対する気運も(もりあ)り上がりを見せました。
原水爆(げんすいばく)に対する国民の高い関心は、禎子(さだこ)さんの死をきっかけとした、
原爆(げんばく)()くなった子供(こども)たちを慰霊(いれい)するための
原爆(げんばくのこ)の子の像」建立運動の追い風になりました。

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白血病の治療(ちりょう)

白血病の治療(ちりょう)は、白血球を直接(おぎな)う輸血や、がん細胞(さいぼう)の増加を薬で(おさ)える化学療法(かがくりょうほう)骨髄(こつずい)を移植して健康な血液をつくる方法などがあり、現在も研究が進んでいます。しかし、1955(昭和30)年当時はがん細胞(さいぼう)増殖(ぞうしょく)を食い止める薬が出始めたころで、禎子(さだこ)さんは当時最先端(さいせんたん)の薬を使われたにもかかわらず、発病から一年足らずの間に()くなったのです。
原爆(げんばく)と白血病 1950(昭和25)年から1953(昭和28)年をピークとして被爆者(ひばくしゃ)に白血病が多くみられました。被爆者(ひばくしゃ)被爆(ひばく)していない人の白血病の症状(しょうじょう)(ちが)いはなく、放射線(ほうしゃせん)が原因かどうかは分かりません。しかし、大量 の放射線(ほうしゃせん)を受けた被爆者(ひばくしゃ)には、被爆(ひばく)していない人よりも高い割合(わりあい)で白血病がみられるため、放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)があると考えられています。白血病とは血液のうち、外から侵入(しんにゅう)した細菌(さいきん)と戦う機能を持つ白血球が、がん細胞(さいぼう)に変わって増え続ける病気です。増えたがん細胞(さいぼう)である白血球は未熟(みじゅく)な役に立たない細胞(さいぼう)で、逆に成熟(せいじゅく)した白血球や血小板は減ってしまいます。このため、細菌(さいきん)に対する抵抗力(ていこうりょく)が弱まったり、出血しやすくなります。リンパ節のはれや、発熱、貧血、出血によるあざなどの症状(しょうじょう)がみられます。悪化すれば死に(いた)る病気です。
げんばくおとめ
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被爆者(ひばくしゃ)()らし

1955(昭和30)年/ニューヨーク

被爆者(ひばくしゃ)の中には健康不安と貧困(ひんこん)に苦しむ人も少なくありませんでしたが、特別 な援護(えんご)は、ほとんど行われていませんでした。大きな転機にさしかかったのは、顔や(うで)などにケロイドが残る(わか)い女性、いわゆる「原爆乙女(げんばくおとめ)」の問題が注目され始めた1951(昭和26)年ごろです。この治療活動(ちりょうかつどう)は、それまであまり知られていなかった被爆者(ひばくしゃ)への関心を高めました。写 真はニューヨークの病院で治療(ちりょう)を受ける「原爆乙女(げんばくおとめ)」。
第13回げんばくしょうがいしゃごうどうしんさつかい 37
理解されなかった「原爆症(げんばくしょう)

1954(昭和29)年11月/広島市民病院

原爆(げんばく)でどのような後障害(こうしょうがい)があらわれるかという医学的研究成果 の発表は、占領下(せんりょうか)では(きび)しい制限を受けました。1951(昭和26)年にサンフランシスコ講和条約が結ばれてから、ようやく原爆問題(げんばくもんだい)に対する自由な論議(ろんぎ)ができるようになったのです。しかし、1955(昭和30)年当時、放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)についてはよく分かっておらず、「原爆症(げんばくしょう)」はうつるなどの偏見(へんけん)を持つ人もいました。写 真は第13回原爆障害者合同診察会(げんばくしょうがいしゃごうどうしんさつかい)
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高まる原水爆禁止(げんすいばくきんし)の気運

1955(昭和30)年8月6日/広島市公会堂

1954(昭和29)年3月、ビキニ環礁(かんしょう) で日本のマグロ漁船「第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)」がアメリカの水爆実験(すいばくじっけん)被曝(ひばく)しました。乗組員が放射線(ほうしゃせん)による健康障害(けんこうしょうがい)で入院し、半年後に一人が()くなったことに日本中がショックを受けました。これをきっかけに、原水爆禁止(げんすいばくきんし)を求める運動が活発になり、1955(昭和30)年第1回原水爆禁止世界大会(げんすいばくきんしせかいたいかい)の実現へと結び付きました。こうして広島、長崎(ながさき)原爆被害(げんばくひがい)が世界に伝えられました。1957(昭和32)年、「原子爆弾被爆者(げんしばくだんひばくしゃ)医療(いりょう)等に関する法律案(ほうりつあん)」(原爆医療法(げんばくいりょうほう))が制定され、被爆者(ひばくしゃ)健康診断(けんこうしんだん)医療(いりょう)が国により行われるようになりました。本格的な被爆者援護(ひばくしゃえんご)がようやく始まったのです。
げんすいばくきんしせかいたいかい

  一人の被爆少女(ひばくしょうじょ)の死ー佐々木禎子(ささきさだこ)さん12(さい)
 禎子(さだこ)さんが生きた4675日
 (わたし)の中の禎子(さだこ)さん
 ●禎子(さだこ)さんが()くなった1955(昭和30)年のヒロシマ

その後のサダコ-ヒロシマから世界へー
 ●「原爆(げんばく)の子の像」建立へ
 ●広がるサダコの物語

最後に
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