きかくてんをみよう
一人の被爆少女(ひばくしょうじょ)の死-佐々木禎子(ささきさだこ)さん12(さい)
1955(昭和30)年秋、一人の少女が()くなりました。
被爆(ひばく)から10年後でした。
そのころ広島には活気が(もど)っていました。
しかし復興の(かげ)で、
被爆
(ひばく)
(きず)はまだ色濃(いろこ)く残っていました。
また当時、アメリカとソ連は
競って核実験(かくじっけん)()(かえ)し、
日本でも雨から自然放射線(しぜんほうしゃせん)を上回る
放射線
(ほうしゃせん)
が見つかっていました。
人々は核兵器(かくへいき)に無関心ではいられなかった、
そんな時代のことでした。
海外から送られた折りづる
1 海外から送られた折り(づる)

禎子(さだこ)さんが生きた4675日
佐々木禎子(ささきさだこ)さんは1943(昭和18)年に生まれ、2(さい)の時に被爆(ひばく)しました。
運動の得意な元気な少女に成長しましたが、被爆(ひばく)から10年後に突然(とつぜん)
白血病であると診断(しんだん)され入院しました。
千羽鶴(せんばづる)がお見舞(みま)いに(おく)られたことをきっかけに、
「生きたい」という願いを()めて折り(づる)を折り始めます。
8カ月の入院生活の末、家族が見守る中()くなりました。

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両親の願いは元気な子供(こども)に育つこと

1943(昭和18)年/楠木町(くすのきちょう)

佐々木禎子(ささきさだこ)さんが生まれたのは1943(昭和18)年1月7日。理髪店(りはつてん)を営む佐々木家(ささきけ)の長女です。当時日本は戦争をしており、禎子(さだこ)さんが生まれて間もなくお父さんが召集(しょうしゅう)されたため、お母さんが理髪店(りはつてん)を切り()りしていました。写真中央の母に()かれているのが禎子(さだこ)さん。
さだこさんの家族
げんしばくだんの投下 3
原子爆弾(げんしばくだん)の投下

1945(昭和20)年8月6日

1945(昭和20)年8月6日、原爆(げんばく)が投下されました。家族と共に爆心地(ばくしんち)から約1.7kmの楠木町(くすのきちょう)自宅(じたく)被爆(ひばく)した禎子(さだこ)さんは、爆風(ばくふう)で屋外まで飛ばされましたが、やけども(きず)も負いませんでした。すぐに辺りから火の手が出始めたので、禎子(さだこ)さんはお母さんに背負(せお)われ避難(ひなん)しました。その際、三篠橋付近(みささばしふきん)で「黒い雨」に打たれました。
げんばくとうか2カ月後の様子 4
原子爆弾投下(げんしばくだんとうか)2カ月後の様子

1945(昭和20)年10月上旬(じょうじゅん)

禎子(さだこ)さんの自宅(じたく)は全焼したため、家族は県北部の三次の親類の家に身を寄せることになりました。爆心地(ばくしんち)から半径2km以内の地域(ちいき)は、熱線と火災によりすべて燃え()くされたのです。原爆(げんばく)爆風(ばくふう)と熱線、そして放射線(ほうしゃせん)は人々に被害(ひがい)(あた)えました。当時市内には約35万人がいましたが、一発の原爆(げんばく)で、その年の12月末までに14万(±1万)人が()くなりました。
ささきりはつてん リレーの選手
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復興への新たな生活の始まり

撮影時期不詳(さつえいじきふしょう)佐々木理髪店(ささきりはつてん)

戦後の混乱(こんらん)や物不足に苦しみながらも、再建するための努力が続けられました。佐々木家(ささきけ)も1947(昭和22)年に新たに市内に理髪店(りはつてん)を開き、生活に落ち着きを取り(もど)していきました。禎子(さだこ)さんは元気に育ち、幟町(のぼりちょう)小学校に入学しました。
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足の速さは学校一番

1954(昭和29)年10月/幟町(のぼりちょう)小学校

6年生になった禎子(さだこ)さん。身長135cm、体重27kg。少しやせ気味ですが、いたって健康。かけっこはだれにも負けません。50mを7.5秒で走りました。秋の運動会ではリレーの選手に選ばれ活躍(かつやく)しました。将来(しょうらい)の夢は中学校の体育の先生。9月ごろから少し顔色が悪いことに気付きましたが、特に気に留めることはありませんでした。前列中央が禎子(さだこ)さん。
1954年秋のさだこさん 広島赤十字病院
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病のきざし

1954(昭和29)年秋

1954(昭和29)年11月下旬(げじゅん)禎子(さだこ)さんは軽い風邪(かぜ)をひき首や耳の後ろにいくつかしこりができました。徐々(じょじょ)にしこりは大きくなり、おたふく風邪(かぜ)のように顔がはれました。正月明けに近所の病院に行きましたが、いっこうにはれはひきませんでした。1月末には左足に紫色(むらさきいろ)斑点(はんてん)がみられました。しかし、だれにも禎子(さだこ)さんの体内で進行していた病気は分からなかったのです。
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死の宣告(せんこく)

1939(昭和14)年/広島赤十字病院

当初は風邪(かぜ)と思っていましたが、病院をまわって(くわ)しく検査した結果 、白血病と診断(しんだん)されました。2月18日、お父さんは医者から「長くて一年の命。すぐ入院が必要」と宣告(せんこく)されました。禎子(さだこ)さんがそのような重病だとは、信じたくありませんでした。お父さんから「はれを治すため少しの間入院しなければならない」と説明を受けた禎子(さだこ)さんは、2月21日に広島赤十字病院に入院しました。
さだこさんの小学校のそつぎょうしょうしょ
9 禎子(さだこ)さんの小学校の卒業証書

こけし
10 禎子(さだこ)さんが自分で買い、病院のベッドの(まくら)もとに(かざ)っていたこけし
同級生のおみまい
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同級生のお見舞(みま)

1955(昭和30)年/広島赤十字病院

小学校の同級生は、禎子(さだこ)さんの入院を担任(たんにん)の先生から聞き、交代で病院にお見舞(みま)いに行きました。卒業式では、出席できない禎子(さだこ)さんの代わりにお父さんが卒業証書を受け取りました。入院から約1カ月後、禎子(さだこ)さんはクラスの友達と同じく中学校に進学はしたものの、通 うことはできませんでした。
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平和の(いの)

1955(昭和30)年8月6日/平和記念公園

8月6日、外出許可をもらって家族で平和記念式典に参列することにしました。しかし平和記念公園に向かう途中(とちゅう)禎子(さだこ)さんは歯ぐきから出血し体調を(くず)したので式典には参加せず、すぐ病院に(もど)りました。
平和記念式典
新聞記事 かんじゃに送るおりづる四千 さだこさんの白血球および体温の変化とちりょう
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(とど)けられたお見舞(みま)いの(つる)

1955(昭和30)年8月3日/広島赤十字病院

8月初旬(しょじゅん)禎子(さだこ)さんは薬の効果 で首のはれが少しひき、比較的(ひかくてき)元気でした。しかし両足には紫色(むらさきいろ)斑点(はんてん)が出ており、少しずつ病気は進んでいました。8月3日、名古屋から色とりどりの折り(づる)がお見舞(みま)いとして病院に送られてきました。その美しさに、入院患者(にゅういんかんじゃ)の多くが自分でも折り始めました。禎子(さだこ)さんもそれをきっかけにして、病気を治したいという願いを()めて折るようになりました。
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消えた生命

1939(昭和14)年/広島赤十字病院

禎子(さだこ)さんは、自分が折った(つる)に糸を通して、病室の天井(てんじょう)からつるしました。折り始めて一カ月足らずの8月末までに禎子(さだこ)さんの折り(づる)は千羽に達しました。それ以降(いこう)禎子(さだこ)さんは(つる)を折り続けました。9月末、入院以降(いこう)三度目の白血球の増加が始まりました。次第に自力では歩けないほどに、体調は悪くなりました。10月25日の朝、家族が見守る中、()くなりました。

  一人の被爆少女(ひばくしょうじょ)の死ー佐々木禎子(ささきさだこ)さん12(さい)
 ●禎子(さだこ)さんが生きた4675日
 (わたし)の中の禎子(さだこ)さん
 禎子(さだこ)さんが()くなった1955(昭和30)年のヒロシマ

その後のサダコ-ヒロシマから世界へー
 ●「原爆(げんばく)の子の像」建立へ
 ●広がるサダコの物語

最後に
 御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関

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