きかくてんを見よう
(わたし)の中の禎子(さだこ)さん
禎子さんは両親にとって手のかからない子でした。
よく気がつき、子供(こども)らしくないほどにきちょうめんな性格で、
「お母さんほっときよ、(わたし)がするから」と言っては進んで家の手伝いをしていました。
学校の友達からは、おとなしくてしっかりした女の子とみられていました。
とりたてて目立たない普通(ふつう)の女の子なのに、
スポーツをさせたら右に出る子はいませんでした。
入院(にゅういん)中の禎子(さだこ)さんは、人見知りしない性格を存分(ぞんぶん)発揮(はっき)し、
物おじせずに大人の患者(かんじゃ)とも付き合って、
小児科だけでなく病院中を自由に駆け回(かけまわ)っていました。
いつもにこやかで明るく活発、家族思いの辛抱強(しんぼうづよ)い子という印象だったと
看護婦(かんごふ)さんは思い出します。
彼女(かのじょ)は家庭、学校、病院というそれぞれの世界を精いっぱい生きました。
その中で禎子(さだこ)さんはさまざまな側面 を見せています。
その世界はますます広がるはずでした。

6年竹組の仲間たち
屋外の仮設教室での授業風景 15
戦争の(いた)みを知る子供(こども)たち

1948(昭和23)年/幟町小学校(のぼりちょうしょうがっこう)

戦後しばらくの間、広島市では原爆(げんばく)破壊(はかい)された校舎の復旧が(おく)れていたため教室が足りず、講堂を仕切って授業をする学校もありました。戦争の傷痕(きずあと)子供(こども)たちにも影響(えいきょうく)(およ)ぼしていたのです。禎子(さだこ)さんがいた竹組の児童も3分の1が被爆(ひばく)していました。また大陸から引き揚(ひきあ)げた子供(こども)や、戦争で両親を失った子供も多くいました。写 真は、屋外の仮設教室での授業風景。禎子(さだこ)さんは翌年(よくねん)、この小学校に入学しました。
同級生の地後暢彦()
「リレーの練習で禎子(さだこ)さんは(ぼく)()く時、笑って()()きました。それが(くや)しくてね。僕はそのイメージを一番覚えています。」

16
リレーで団結

1954(昭和29)年/幟町小学校(のぼりちょうしょうがっこう)

6年から竹組の担任(たんにん)になった野村先生は、クラスがまとまっていないと感じ、クラスに団結の心を持たせることを目標にしました。春の運動会のリレーで最下位 になった竹組は、秋の運動会に向けてリレー練習を毎日行うことにしました。練習は、放課後クラス全員で続けられました。運動が得意だった禎子(さだこ)さんは、ずばぬ けた速さでいつも大活躍(だいかつやく)でした。
リレーで団結
楽しい学校生活 地後暢彦()
「『継続』と『団結』の大切さを野村先生から教えてもらいました。本当に仲が良く最高のクラスだと今でも思っています。」

17
楽しい学校生活

1954(昭和29)年秋/宮島

秋の大運動会では、練習の成果を発揮(はっき)して竹組は優勝(ゆうしょう)しました。その後もリレーの練習は続き、一つのことを全員で取り組む竹組には団結の心が芽生えました。秋の遠足で、宮島の弥山(みせん)に登った時、禎子(さだこ)さんは級友と競争し、女子の先頭グループで頂上(ちょうじょう)に着きました。着くなり「面 白かった。だけどおなかがすいた」と大声で(さけ)び、みんなの笑いをさそいました。しかし楽しい日々は終わりに近づいていました。写 真前から2列目の右側が禎子(さだこ)さん。
卒業アルバム「憶い出」
18 禎子(さだこ)さんが通 った幟町小学校(のぼりちょうしょうがっこう)の卒業アルバム
入院(にゅういん)による環境の変化
にゅういん-生まれて初めての晴れ着 晴れ着を見せると「まあお母ちゃん、(わたし)のために無理をして」と(なみだ)をいっぱいにして言いました。「お願いだから着てみてちょうだい」と言うと素直に(なみだ)をふきながら喜んでいました。
追悼(ついとう)文集「こけし」 お母さんの文章より)

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入院(にゅういん)-生まれて初めての晴れ着

1955(昭和30)年/幟町小学校(のぼりちょうしょうがっこう)

禎子(さだこ)さんが白血病でもう長くないと宣告(せんこく)されて、お父さんは頭の中が真っ白になりました。禎子(さだこ)さんを喜ばせる方法はないかと考え、生まれて初めての晴れ着を作ることにしました。お母さんは親類に手伝ってもらい、一晩で着物を仕立てました。
きんちゃくとぞうり
20 晴れ着と一緒(いっしょ)に買ってもらったきんちゃくと草履(ぞうり)
こどもたちの動揺 同級生の川野登美子()
「『なんで禎子(さだこ)ちゃんが』という思いで(むね)がいっぱいになりました。『(わたし)被爆(ひばく)しているけれど……』と自分自身が不安になることもありました。禎子(さだこ)さんが心配で、何度もお見舞(みま)いに行き、入院(にゅういん)してから小学校を卒業するまでの1カ月は途方もなく長く感じました。」

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子供(こども)たちの動揺(どうよう)

1954(昭和29)年/平和記念公園

禎子(さだこ)さんが入院(にゅういん)し、野村先生から「原爆症(げんばくしょう)」と聞かされた竹組のみんなは信じられず泣き出す子もいました。禎子(さだこ)さんを支えなければと交代でお見舞(みま)いに行くことに決めました。禎子(さだこ)さんが気落ちしてはいけないので、病気のことは決して知らせないと約束しました。
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行きたかった中学校

1957(昭和32)年/幟町中学校(のぼりちょうちゅうがっこう)

竹組のみんなが禎子(さだこ)さんをお見舞(みま)いに行くと、禎子さんはよく中学校のことを話題にしました。入学式帰りにお見舞(みま)いに来た友達に、「(わたし)は何組だった?」と(たず)ねるなど、とても気にしている様子でした。病室に中学校の教科書を持ち込み、退院した時に学校の勉強についていけるか心配していました。
川野登美子()
「『中学校はどんな?』『英語は難しい?』など質問されると、(わたし)たちはもう禎子(さだこ)さんが中学校に来ることはないと知っていたので答えるのがつらく、『中学校なんかつまらないよ』『小学校がよかった』とその場を取り(つくろ)うのがやっとでした。」
行きたかった中学校
大人への過渡期(かとき)
新聞記事 おたよりちょうだい 1955年のさだこさん
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「おたよりちょうだい 広島市日赤病院中二階 佐々木(ささき)禎子(さだこ)

1955(昭和30)年

5月になって禎子(さだこ)さんは二人部屋に移りました。同室になった2(さい)年上の大倉記代さんの影響(えいきょうく)で、小説を読んだり、少女雑誌(しょうじょざっし)で文通 相手を(さが)して、多くの人と文通 を始めたりしました。ちょうど思春期を(むか)えたころの禎子(さだこ)さんの興味の(はば)は、少しずつ広がっていました。
病院で同室だった大倉記代()
禎子(さだこ)さんは好奇心(こうきしん)がおう(せい)で、あちこちの病室に行っては、ほかの入院(にゅういん)患者(かんじゃ)からいろいろな情報を集めていました。ある日、禎子(さだこ)さんはキャベツをゆでてしょうゆで食べるとおいしいらしいという情報を仕入れてきて、二人で病院の調理場で作って食べてみたら、本当においしかったです。」
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写真に()られるのは苦手

1955(昭和30)年夏/基町

当時写真は貴重(きちょう)で、写 る前に晴れ着に着替えることもありました。12(さい)禎子(さだこ)さんの写 真はどれも同じ表情です。病気によるはれのためふっくらして見えます。いつもはにこやかな禎子(さだこ)さんですがカメラを向けられると突然(とつぜん)(かた)くなってしまうのです。小さい(ころ)は笑顔で写 真に写っています。()じらいという感情が芽生えていたのでしょうか。
「死」と向き合う
大倉記代さんと禎子さん 病院で同室だった大倉記代()
()きしめた禎子(さだこ)さんの肩のあまりの細さにびっくりしました。その時、禎子さんは自分の病気のことを知っているんだなあと思いました。」

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白血病の女の子の死

1955(昭和30)年夏/広島赤十字病院

7月、ユキちゃんと呼ばれていた5(さい)の女の子が禎子(さだこ)さんと同じ白血病で()くなりました。顔には禎子さんの足にみられるような斑点(はんてん)が出ていました。「うちもああして死ぬ んじゃろうか。」同室の大倉さんと一緒(いっしょ)にお別 れを言いに行った禎子(さだこ)さんはポツリともらしました。暗い廊下(ろうか)で二人は()き合って泣きました。写 真は大倉さんと。
手に血液を入れられている時は、大変(いた)かった。医者さんが言われるには、少し(いた)いことをしないと治らないと言われました。痛い目をしてでも良いから(わたし)は早くよくなって春休みにはおねえちゃんのところに行くかも知れません。
禎子(さだこ)さんが文通 相手に書いたとされる文章)
(わたし)原爆(げんばく)を受けて入院(にゅういん)したのです。私は八月六日の日におまいりして、(わたし)も「原爆(げんばく)許すまじ」の歌を歌い病院に帰ってもベッドの上に寝て歌っています。
禎子(さだこ)さんが文通 相手に書いたとされる文章)
看護婦のみなさん 新聞記事 中国からの使節団
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つらい闘病生活(とうびょうせいかつ)

撮影時期不詳(さつえいじきふしょう)/広島赤十字病院

禎子(さだこ)さんは、注射(ちゅうしゃ)を泣いたりせずじっと()えていました。()くなるまで一度も「(いた)い」と口にしたことはありません。しかし、白血病の女の子が死んで以来「ねえ、今度は(わたし)の番ね」と看護婦(かんごふ)さんに泣きながら弱音を()くこともありました。病状が安定した5月ごろから、週末は外出許可をもらい、自宅(じたく)に戻りました。残りの時間を楽しく過ごせるようにという、担当(たんとう)の先生の心遣(こころづか)いでした。写 真は禎子(さだこ)さんを担当(たんとう)した看護婦(かんごふ)のみなさん。
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口ずさんだ反核(はんかく)の歌

1955(昭和30)年8月19日/広島赤十字病院活

8月19日、中国からの使節団が広島赤十字病院に被爆(ひばく)者のお見舞(みま)いに来ました。その歓迎(かんげい)会で、「原爆(げんばく)を許すまじ」という歌の合唱がありました。それを覚えた禎子(さだこ)さんは、同室の大倉さんに教えました。
大倉記代()
禎子(さだこ)さんは『原爆(げんばく)を許すまじ』の詞に自分自身の気持ちを重ね合わせていたようで、(わたし)が覚えるまで、病院の屋上で何度も何度も歌い続けました。」
折り(づる)(たく)した思い
大倉記代()
「折る時間は有り余るほどありました。問題は折り紙でした。当時紙は貴重(きちょう)なもので、薬の包み紙などを使いました。禎子(さだこ)さんは紙を手に入れるために、ほかの病室をまわりお見舞(みまく)いの包装紙(ほうそうし)を集めて切って使いました。」
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入院(にゅういん)生活と折り(づる)

名古屋から(おく)られたセロハンの千羽(づる)は、病院内に鶴を折るという流行をもたらしました。色(あざ)やかな折り(づる)は病室を明るくし、また静養が必要でベッドでおとなしくしておかねばならない患者(かんじゃ)さんにとって、折り(づる)はまたとない気晴らしとなりました。
29
小さくなった折り(づる)

千羽折り終わったころから、禎子(さだこ)さんの(つる)は小さくなっていきました。(はり)の先で折り目をつけて、(いの)るように真剣(しんけん)に一羽一羽を折っていました。数は問題ではなく、生きたいという願いを()めて折る行為(こうい)自体が重要なのでした。手前にあるのは米粒(こめつぶ)
父親の佐々木(ささき)繁夫(しげお)()
「『あんまり根をつめると体に(さわ)るよ』と注意しても『いいから、いいから。考えがあるんだから』と(つる)を折ることをやめませんでした。鶴を一心に折る姿(すがた)からは生きたいという気持ちが(いた)いほど伝わってきました。」
米粒と小さくなった折り鶴
残された人たちの苦しみと後悔(こうかい)
父親の佐々木(ささき)繁夫(しげお)()
「『禎子(さだこ)親不孝(おやふこう)だね。病気でたくさんのお金を使って』といつも言っていた禎子(さだこ)のことを考えると(むね)がつぶれそうになります。高価で手に入らなかったジューサーがあれば、食欲(しょくよく)のなくなった禎子(さだこ)でも栄養を取ることができたのではと悲しくてなりません。」
お母さんと禎子さん
広島児童文化会館
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すべては彼女(かのじょ)を喜ばせるために

撮影時期不詳(さつえいじきふしょう)/広島児童文化会館

入院(にゅういん)当時、佐々木家(ささきけ)は友人の保証人になったことがもとで、大変な借金を背負(せお)っていました。それでも両親は禎子(さだこ)さんを喜ばせたいと考え、海や広島児童文化会館へ遊びに連れて行くなどしました。禎子(さだこ)さんも家庭の事情を察し、わがままを言いませんでした。
31
口に出せない(さび)しさ

1955(昭和30)年

1955(昭和30)年秋、禎子(さだこ)さんの病状はかなり悪くなっていました。(さび)しいのをこらえて禎子さんは「(弟や妹が寂しがるから)早く家に帰ったほうがいい」と言うのですが、お母さんを見送る禎子(さだこ)さんの目には(なみだ)が浮かんでいました。「禎子(さだこ)ちゃん、泣いとったら帰れんじゃないねえ」とお母さんもつらくて泣いてしまいました。もう一人にはできないと、次の日からお母さんは病院に()まり始めました。
禎子さん 兄の佐々木(ささき)雅弘()
「最後まで意識はしっかりしていました。自分がその直後に死ぬなんて思ってなかったと思います。突然(とつぜん)、苦しむこともなく(ねむ)るように()くなったんですよ。」

32
永遠の別れ

1955(昭和30)年10月26日/真光寺

10月中旬(ちゅうじゅん)、左足は赤紫色(あかむらさきいろ)になり1.5倍にまではれて、(ねむ)れないほどの激痛(げきつう)禎子(さだこ)さんを(おそ)いました。10月25日の朝、(あぶ)ないということで、家族が病室に集まりました。お父さんが何か食べるよう(すす)めると禎子(さだこ)さんは「お茶漬(ちゃづ)けが食べたい」と言いました。急いで近くの食堂でごはんを買って来て、一さじ口に(ふく)ませました。「おいしい」それが最期の言葉でした。二口目を食べると(ねむ)るように息を引き取りました。約8カ月の入院(にゅういん)生活でした。
33
家族の苦しみ

禎子(さだこ)さんの両親は、子供(こども)に先立たれるという不幸にあいました。また当時生活が苦しかったため、親として十分なことがしてやれなかったという後悔(こうかい)(むね)()め付けられました。そして、原爆(げんばく)による白血病だったのかと思うたび、戦争が終わって10年もたった今になってなぜ、というやり場のない感情がわきあがりました。さらに、禎子(さだこ)さんがマスコミなどに取り上げられ有名になっていく中で、悲しい思い出を繰り返(くりかえ)掘り返(ほりかえ)されるつらさと、禎子(さだこ)さんだけが犠牲者(ぎせいしゃ)ではないのだという冷たい視線(しせん)()えなければならなくなりました。写 真は原爆(げんばく)死没者慰霊碑(しぼつしゃいれいひ)広島平和都市記念碑(ひろしまへいわとしきねんひ))に折り(づる)(ささ)げる禎子(さだこ)さんの家族。
慰霊碑に折り鶴をささげる禎子さんの家族
死を見詰めた病床記録 34
死を見詰(みつ)めた病床記録(びょうしょうきろく)

禎子(さだこ)さんが()くなった後、ベッドを整理すると血液検査の数値(すうち)を記録した用紙が出てきました。だれも病名を言わなかったのに、禎子(さだこ)さんは血液の病気と気付いていたのでしょうか。記録は7月4日で終わっています。今となっては、続きがあったかどうかは分かりません。
同級生の地後暢彦()
「お見舞(みま)いの時は『元気づけよう、気分を明るくしてやりたい』という気持ち。血液検査の用紙のことを知り、『自分が死ぬ ような病気と知っていたのか、わしらのしていたことはなんだったのか』とがく然としました。」

  一人の被爆少女(ひばくしょうじょ)の死ー佐々木禎子(ささきさだこ)さん12(さい)
 禎子(さだこ)さんが生きた4675日
 ●(わたし)の中の禎子(さだこ)さん
 禎子(さだこ)さんが()くなった1955(昭和30)年のヒロシマ

その後のサダコ-ヒロシマから世界へー
 ●「原爆(げんばく)の子の像」建立へ
 ●広がるサダコの物語

最後に
 御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関

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