禎子さんは両親にとって手のかからない子でした。 よく気がつき、 「お母さんほっときよ、 学校の友達からは、おとなしくてしっかりした女の子とみられていました。 とりたてて目立たない スポーツをさせたら右に出る子はいませんでした。 物おじせずに大人の 小児科だけでなく病院中を自由に いつもにこやかで明るく活発、家族思いの その中で その世界はますます広がるはずでした。 |
6年竹組の仲間たち |
15 戦争の 1948(昭和23)年/ 戦後しばらくの間、広島市では |
同級生の地後暢彦 「リレーの練習で 16 リレーで団結 1954(昭和29)年/ 6年から竹組の |
地後暢彦 「『継続』と『団結』の大切さを野村先生から教えてもらいました。本当に仲が良く最高のクラスだと今でも思っています。」 17 楽しい学校生活 1954(昭和29)年秋/宮島 秋の大運動会では、練習の成果を |
18 |
晴れ着を見せると「まあお母ちゃん、 ( 19 1955(昭和30)年/ 20 晴れ着と |
同級生の川野登美子 「『なんで 21 1954(昭和29)年/平和記念公園 |
22 行きたかった中学校 1957(昭和32)年/ 竹組のみんなが 川野登美子 「『中学校はどんな?』『英語は難しい?』など質問されると、 |
大人への |
23 「おたよりちょうだい 広島市日赤病院中二階 1955(昭和30)年 5月になって 病院で同室だった大倉記代 「 |
24 写真に 1955(昭和30)年夏/基町 当時写真は |
「死」と向き合う |
病院で同室だった大倉記代 「 25 白血病の女の子の死 1955(昭和30)年夏/広島赤十字病院 7月、ユキちゃんと呼ばれていた5 |
手に血液を入れられている時は、大変 ( |
( |
26 つらい |
27 口ずさんだ 1955(昭和30)年8月19日/広島赤十字病院活 8月19日、中国からの使節団が広島赤十字病院に 大倉記代 「 |
折り |
大倉記代 「折る時間は有り余るほどありました。問題は折り紙でした。当時紙は |
28 名古屋から |
29 小さくなった折り 千羽折り終わったころから、 父親の 「『あんまり根をつめると体に |
残された人たちの苦しみと |
父親の 「『 |
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30 すべては |
31 口に出せない 1955(昭和30)年 1955(昭和30)年秋、 |
兄の 「最後まで意識はしっかりしていました。自分がその直後に死ぬなんて思ってなかったと思います。 32 永遠の別れ 1955(昭和30)年10月26日/真光寺 10月 |
33 家族の苦しみ |
34 死を 同級生の地後暢彦 「お |
一人の ● ● ● その後のサダコ-ヒロシマから世界へー ●「 ●広がるサダコの物語 最後に ▲TOPにもどる |