きかくてんを見よう
広がるサダコの物語
佐々木禎子(ささきさだこ)さんの実話は、「原爆(げんばく)の子の像」の建立後、
「サダコと折り(づる)の物語」となって世界に広まっていきます。
それは、1956(昭和31)年、オーストリアから
ジャーナリストのロベルト・ユンクが広島を(おとず)れ、禎子さんの話を聞いたことがきっかけでした。
ユンクは、折り鶴の数や()くなる際の様子など、創作(そうさく)を交じえながら禎子(さだこ)さんを(えが)き、
廃墟(はいきょ)の光」として世界に発表しました。
広島の一人の被爆少女(ひばくしょうじょ)・禎子さんは、永遠の命をもつサダコとなったのです。
サダコは、時代や言葉・民族・国境の(ちが)いなど、さまざまな(かべ)を乗り()えて、広島から世界に伝えられ、
今も人々の心の中に生き続けています。

それぞれのサダコ 時代とともに変わりながら世界へ
実在の禎子さんは、生きたいと願って最後まで希望を失わず、短い命を懸命(けんめい)に生きた少女でした。何か政治的な考えを折り鶴に()めたのでもなければ、ある宗教(しゅうきょう)の教えに基づいて鶴を折ったわけでもありませんでした。
しかし、「サダコの物語」に心を打たれた人々は、自分の見方でサダコのイメージを(ふく)らませました。
アメリカとソ連(現在のロシア)が(きび)しく対立していた1950年代から1980年代にかけては、政治や社会運動の中でサダコが利用されました。こうした時代の流れの中で、サダコは、伝えようとする人々からそれぞれのメッセージを(たく)されて、世界に広まっていきました。
死の直後
禎子さんが亡くなった1955(昭和30)年ごろは、被爆者が亡くなるとニュースとして新聞などで報道されました。禎子さんの死も、「原爆症(げんばくしょう)」で亡くなった一人の被爆少女として報じられました。

冷戦(アメリカとソ連との対立)時代の西側諸国(にしがわしょこく)
西側諸国(アメリカなど資本主義の国々)では、サダコは、原水爆禁止運動(げんすいばくきんしうんどう)や平和運動の中で、核兵器(かくへいき)に反対し、平和を願った少女として人々に紹介(しょうかい)されました。
新聞記事
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冷戦時代の東側諸国(ひがしがわしょこく)

1988(昭和63)年5月31日

冷戦時代の東側諸国(ソ連など社会主義の国々)では、サダコは、西側諸国のアメリカが開発した、非人道的な兵器の犠牲(ぎせい)となった罪無き少女として、子供(こども)たちに教えられました。
冷戦後から現在まで
折り鶴を送付した海外の子供たち。サダコの物語には、元気だった少女の突然(とつぜん)の死、友情、戦争と原爆、折り鶴など、教材にしやすい要素が(ふく)まれています。このため、死後間もなくサダコは教材に取り入れられました。
マルベリー小学校
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アメリカ・ウィティア市のマルベリー小学校
こどもセンター
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ロシア・モスクワ市の子供センター
かくへいきはいぜつと世界平和実現をうったえる 55
ヒロシマにとって

1995(平成7)年11月7日

核兵器の使用が国際的に違反(いはん)するかどうかの判断が求められた国際司法裁判所(こくさいしほうさいばんしょ)(オランダ・ハーグ市)では、広島市長も陳述(ちんじゅつ)を行い、一人の被爆者として佐々木禎子さんを紹介(しょうかい)しました。サダコは、ヒロシマから世界に向けて核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)と世界平和実現を(うった)えるときの象徴的(しょうちょうてき)存在(そんざい)となっています。
さまざまに(えが)かれたサダコ サダコは世界の人々の心の中に
それぞれの立場で伝えられたサダコは、世界各地で人々に感動を(あた)えました。
その感動は、いろいろな形で表現されてきました。
中には、もっと感動を与えるものにしようと、創作(そうさく)を加えたものも生まれました。例えば、折り鶴の数です。実際には1300羽以上の折り鶴が作られましたが、1000羽以下とされている場合もたくさんあります。しかし、実話であっても創作(そうさく)であっても、サダコは、世界の人々の心に深く(ひび)きます。
1955(昭和30)年の禎子さんの死から今日までの46年間に、世界各地でさまざまな人々によって、さまざまなものがつくられてきました。
●絵本・読み物●
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紙芝居(かみしばい)や漫画などを含めた絵本・読み物が、日本では23(さつ)、海外では35カ国で14(さつ)確認(かくにん)できました。中でも、40年前に書かれたカール・ブルックナーの本「サダコは生きる」や約25年前に書かれたエレノア・コアの本「サダコと千羽鶴(せんばづる)」、それに続く「サダコ」は多くの言語に翻訳(ほんやく)され、世界で最も親しまれています。
絵本・読み物
ビデオ「つるにのって」のチラシ 映像(えいぞう)
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ビデオ「つるにのって」のチラシ

日本では2本の映画(えいが)が作られています。アメリカでは、エレノア・コア原作の本からアニメーション・ビデオが作られました。このビデオでは、サダコは折り鶴の(つばさ)に平和のメッセージを書きます。さらに、美帆(みほ)・シボ原作のアニメーション映画が、日本語、英語、フランス語で作られています。
●記念像・公園●
本を読んだり、実際に「原爆(げんばく)の子の像」を見て感動し、自分たちも像や公園などを造って人々にサダコのことを伝えようとする取り組みが生まれました。これまでに、広島以外では2つの記念像と2つの記念公園が作られています。
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「折り鶴の()

(所在地:広島市立幟町中学校(のぼりちょうちゅうがっこう)

外国から広島に寄せられる折り鶴に()められた平和への願いを広島の子供たちが受け止めた証として、2000(平成12)年10月26日、幟町中学校生徒会により建てられました。碑の前面には、「折り鶴の願いをここに」という碑文(ひぶん)(きざ)まれています。
折りづるのひ サダコぞう 59
「サダコ平和公園」と「サダコ像」

(所在地:アメリカ・シアトル市)

故フロイド・シュモー氏が中心となり、1990(平成2)年に像と公園を造りました。等身大の像の台座(だいざ)には、
「佐々木禎子/平和の子供/彼女(かのじょ)(わたし)たちに折り鶴を与えてくれた/世界の平和を求める私たちの願いの象徴として/シアトルの人々への(おく)り物」
と刻まれています。
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「子供の平和像」

(所在地:アメリカ・サンタフェ市)

アルバカーキのアロヨ・デル・オソ小学校の3~5年生の子供たちは、「原爆の子の像」の姉妹像建設のため募金活動(ぼきんかつどう)を行い、世界64カ国から資金を集め、1995(平成7)年に完成しました。像は、地球儀(ちきゅうぎ)の形をした(わく)に金色の折り鶴のほか草花や動物で(おお)われた5大陸がデザインされています。
こどものへいわぞう サダコ平和庭園 61
「サダコ平和庭園」

(所在地:アメリカ・サンタバーバラ市)

1995(平成7)年8月6日、国際平和と安全に関する教育・支援事業(しえんじぎょう)を行うアメリカの平和団体の核時代平和財団(かくじだいへいわざいだん)の事業としてこの庭が造られました。庭には鶴のレリーフが刻まれた岩の彫刻(ちょうこく)が置かれ、平和と核兵器のない世界を目指す取り組みを行うすべての人をたたえています。
演劇(えんげき)
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ミュージカル
「平和の鳥--広島の遺産(いさん)禎子と千羽鶴」

日本では2本ですが、海外ではこれまでにオランダ、ソ連、オーストラリア、カナダ、南アフリカ、アメリカの6カ国で6本が上演されました。英語圏(えいごけん)では青少年向けの教育劇(きょういくげき)が多く、学校などで巡回上演(じゅんかいじょうえん)されています。
ミュージカル「平和の鳥」
音楽CDなど ●音楽●
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サダコをテーマにした音楽CDなど

音楽は、絵本や読み物に次いでたくさんの作品が発表されています。日本で10曲、海外ではソ連、モンゴル、アメリカ、ドイツ、オーストラリアの5カ国で10曲です。
●絵画・彫刻●
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水彩画(すいさいが)「サダコと千羽鶴」

サダコは、絵画や彫刻などのテーマにもなりました。この絵は、エレノア・コアの書いた絵本「サダコと千羽鶴」の表紙絵として(えが)かれたものです。
すいさいが「サダコとせんばづる」
●記念日・行事・賞●
日本で2つ、海外ではソ連とアメリカの2カ国で2つあります。
「原爆の子の像」碑前祭(ひぜんさい)
毎年7月の第3日曜日に広島市内の小・中学生が「原爆の子の像」の前に集まり、平和の願いを発信する行事を行っています。この行事は、広島市立幟町中学校(のぼりちょうちゅうがっこう)が毎年、市内の中学校に()びかけて実行委員会実施校(じっこういいんかいじっしこう)募集(ぼしゅう)し、中学生の子供たちが運営しています。
「折り鶴の日」
禎子さんが在籍(ざいせき)していた広島市立幟町中学校では、命日の10月25日を「折り鶴の日」とし、平和集会を行っています。
「サダコ平和の日」の宣言(せんげん)と記念行事(アメリカ)
1996(平成8)年8月6日、サンタバーバラ市長は、毎年8月6日を「サダコ平和の日」(広島の原爆で罪の無い一人の子供の命が失われたことを(いた)み、今後は子供が戦争で傷つけられたり殺されたりすることのないようにとの(ちか)いを新たにする日)とすることを宣言(せんげん)しました。また、「核時代平和財団(かくじだいへいわざいだん)」(サンタバーバラ市)では、毎年、地元で平和行事を行っています。
「4人の少女記念賞」(ソ連)
平和擁護(へいわようご)ソビエト委員会に付属する「世界の子供に平和を」委員会は、1988(昭和63)年に、「気高い勇気を示して非業の死を()げた世界の4人の少女」を記念した文芸賞をつくりました。このうちの一人に佐々木禎子さんが入っていました。ほかの3人は、ターニャ・サーヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミスでした。この賞が現在もあるかは分かりません。
折り(づる)は世界から「原爆(げんばく)の子の像」へ
サダコの物語に感動した人々は、サダコやサダコの友人に自分を重ねあわせ、自分の願いや思いを(たく)して折り鶴を作ります。小さな紙をきちんと折って一羽の折り鶴を完成させるのは、折り紙に慣れていない外国の人々には(むずか)しく感じられます。一生懸命に作ると、折り鶴に込めた思いや完成の喜びなどをだれかと分かち合いたくなるものです。ぜひ広島のサダコに伝えたい、「原爆の子の像」に届けたいと考える人々もあります。
こうして折り鶴は、国内のみならず世界各地から広島に集まってくるのです。「原爆の子の像」に寄せられた折り鶴などから、サダコの広がりを推測(すいそく)することができます。
平和記念資料館に折り鶴を送付された団体数 65
平和記念資料館に折り鶴を送付された団体数
サダコの世界地図 広島に寄せられる折り鶴とサダコの広がり
カール・ブルックナーの本はヨーロッパを中心に34カ国・地域で、エレノア・コアの本は地域の(かたよ)りは少なく18カ国・地域で出版されています。本に感動して折り鶴を作り始める人が多いことから、大まかにいえば、ヨーロッパではブルックナーとコア、英語圏やアジアではコアの本が折り鶴を作るきっかけになっているものと思われます。広島市に寄せられた折り鶴や本の出版状況などから、現在、世界195カ国・地域のうち52カ国・地域に広まっていることが確認できました(2001(平成13)年5月末現在)。
サダコと折りづるが広まっている国・ちいき 66
サダコと折り鶴が広まっている国・地域

アラブ首長国連邦(しゅちょうこくれんぽう)、イスラエル、イラク、イラン、インド、韓国(かんこく)、クウェート、スリランカ、タイ、香港(ほんこん)、日本、台湾(たいわん)、バーレーン、マレーシア、モンゴル、ヨルダン、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、ウルグアイ、コスタリカ、ブラジル、アイスランド、アイルランド、イギリス、イタリア、ウクライナ、オランダ、オーストリア、カザフスタン、クロアチア、スイス、スウェーデン、スペイン、スロバキア、スロベニア、チェコ、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、ハンガリー、フィンランド、フランス、ブルガリア、ベルギー、ポーランド、ルーマニア、ロシア、ユーゴスラビア、南アフリカ
サダコと折り鶴に寄せる思い 国内・海外へのアンケートから
「原爆の子の像」に寄せられる折り鶴には、しばしば、「サダコさんの物語を読んで」などと書かれた手紙やメッセージが同封(どうふう)されています。そこで、サダコがどんな方法で伝えられ、どのように受け止められているのかなどについて知るため、折り鶴を送ってきた人々にアンケートを実施(じっし)しました。
アンケートは、1999(平成11)年と2000(平成12)年の2年間に広島市あてに折り鶴を送ってこられた個人や学校・団体の代表者を対象に行いました。(19カ国630人に送付し14カ国240人から回答がありました。)その回答をまとめると、次のとおりです。
あなたは「サダコとせんばづる」の物語を知っていますか?
●日本● ●外国●
知っている人と知らない人の比率が6:4で、折り鶴を送る人のうちサダコを知っている人は半数を上回る程度です。必ずしもサダコを知って折り鶴を折ったというわけではないようです。 折り鶴を送ってきた人のほとんど(10人のうち9人以上)が、サダコを知っています。
<「知っている人」と答えた人への質問>
無回答が約4分の3もあり、何で知ったか分からない人が結構多いと思われます。分かっている中では、本を読むよりもだれかから聞いて知った人が多いようです。「その他」では、コア/ブルックナー/那須(なす)の本以外の本、テレビ・ラジオ、映画・ビデオなどがありました。
<「知っている人」と答えた人への質問>
およそ3人に1人がだれかから聞いて知ったようです。「平和教材」、「コア/ブルックナー/那須の本」を合計すると、回答者の約半数になります。本を通じて物語を知る場合が多いようです。本の中では、コアの本で知った人が多いようです。英語圏の回答者が多く、英語圏でコアの本が広まっていることを反映(はんえい)した結果となっています。
67 アンケート結果から
折り鶴とサダコは、日本よりも海外で密接(みっせつ)に結びついて広まっているようです。
国や年齢(ねんれい)を問わず、物語を知った人の多くは、生きたいというサダコのひたむきな思い、子供たちの友情と平和への強い願いに感動しています。「平和への願い」が物語全体からのメッセージとなっている点が、広く共感を得ている理由だと思われます。
特に、外国の人々は、最後まで鶴を折り続けるサダコの姿(すがた)に「困難(こんなん)に立ち向かう勇気」を見いだしています。「不治の病という絶望的な状況(じょうきょう)の中で最後まで自分にできる努力を続けるサダコ」と、高く評価しているのです
さまざまな取り組み サダコとの出会いから
入院中の禎子さんは、生きたいという願いを込めて一心に鶴を折りました。死後、「原爆の子の像」が建立され、さらにカール・ブルックナー、エレノア・コアなどの本に「折り鶴に願いを託した少女・サダコ」として描かれて世界に広まり、人々に深い感動を与える物語となりました。
物語が世界各地に広まる中で、サダコは、命の(とうと)さを(うった)えると同時に、人類にとって共通の、そして世界にとって永遠のテーマである「平和」と結びつけて受け止められるようになりました。
サダコに出会いメッセージを受け取った人々の中には、自分たちで折り鶴を作るだけでなく、ほかの人々にも伝えようという活動を始める人々がいます。そのうちのいくつかを紹介します。
広島折鶴の会
1958(昭和33)年、「原爆の子の像」の建立がきっかけで結成されました。小・中・高校生の女子が中心になって病院の慰問(いもん)や、慰霊碑(いれいひ)清掃(せいそう)などの活動を行っています。
68 サダコ学園
(所在地:スペイン・バルセロナ市)

1968(昭和43)年に創設(そうせつ)される時、一心に鶴を折り続けるサダコに、学校の理想とする「理不尽(りふじん)なものに抵抗(ていこう)する勇気」を見いだし、学校の名前にしました。約600人が通う幼稚園(ようちえん)から高校までの学校です。カール・ブルックナーの本でサダコを学んでいます。サダコ学園
69 子供のための世界平和プロジェクト
(所在地:アメリカ・アイザッカー市)

代表の美智子(みちこ)・パンピアンが1995(平成7)年にサダコをテーマにした曲を作り広島を訪問(ほうもん)したのがきっかけとなり、その2年後に設立されました。サダコに関する平和教材を開発し、サダコを通じて平和教育の普及(ふきゅう)に取り組んでいます。こどものための世界平和プロジェクト
70 広島市立幟町中学校生徒会
2000(平成12)年には校庭に「折り鶴の碑」を建設しました。また、2001(平成13年)には「この世界に平和を!」委員会の生徒が禎子さんの生涯を描いた漫画を制作して配布しました。
ひろしましのぼりまちちゅうがっこうせいとかい
千羽鶴平和ネットワーク
(所在地:オーストラリア・キャンベラ市)

青年期にブルックナーの本でサダコに感動したマーク・バズ夫妻は、世界の子供たちにこの物語を広めようと、1996(平成8)年に「2000年平和のための100万羽折り鶴プロジェクト」(2000年を目標に平和を願う鶴を折ろうという事業)を呼びかけました。翌年(よくねん)、ホームページ「千羽鶴平和ネットワーク」を開設し、インターネットで折り鶴が世界に広まるきっかけを作りました。
71 クウェート大学「平和の鳥プロジェクト」
(所在地:クウェート)

クウェートには湾岸戦争(わんがんせんそう)による心の傷に苦しんでいる子供たちがいます。こうした子供たちの苦しみをいやし、(にく)しみを持たず平和の大切さを教えるため、学校で「サダコと折り鶴の物語」が教えられています。サダコに出会った子供たちは、外国にも伝えようとバーレーンを(おとず)れました。クウェート大学「平和の鳥プロジェクト」

  一人の被爆少女(ひばくしょうじょ)の死ー佐々木禎子(ささきさだこ)さん12(さい)
 禎子(さだこ)さんが生きた4675日
 (わたし)の中の禎子(さだこ)さん
 禎子(さだこ)さんが()くなった1955(昭和30)年のヒロシマ

その後のサダコ-ヒロシマから世界へー
 ●「原爆(げんばく)の子の像」建立へ
 ●広がるサダコの物語

最後に
 御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関

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