広がるサダコの物語 「サダコと折り それは、1956(昭和31)年、オーストリアから ジャーナリストのロベルト・ユンクが広島を ユンクは、折り鶴の数や 「 広島の一人の サダコは、時代や言葉・民族・国境の 今も人々の心の中に生き続けています。 |
それぞれのサダコ 時代とともに変わりながら世界へ |
実在の禎子さんは、生きたいと願って最後まで希望を失わず、短い命を しかし、「サダコの物語」に心を打たれた人々は、自分の見方でサダコのイメージを アメリカとソ連(現在のロシア)が |
死の直後 禎子さんが亡くなった1955(昭和30)年ごろは、被爆者が亡くなるとニュースとして新聞などで報道されました。禎子さんの死も、「 冷戦(アメリカとソ連との対立)時代の 西側諸国(アメリカなど資本主義の国々)では、サダコは、 |
52 冷戦時代の 1988(昭和63)年5月31日 冷戦時代の東側諸国(ソ連など社会主義の国々)では、サダコは、西側諸国のアメリカが開発した、非人道的な兵器の |
冷戦後から現在まで 折り鶴を送付した海外の子供たち。サダコの物語には、元気だった少女の |
53 アメリカ・ウィティア市のマルベリー小学校 |
54 ロシア・モスクワ市の子供センター |
55 ヒロシマにとって 1995(平成7)年11月7日 核兵器の使用が国際的に |
さまざまに |
それぞれの立場で伝えられたサダコは、世界各地で人々に感動を その感動は、いろいろな形で表現されてきました。 中には、もっと感動を与えるものにしようと、 1955(昭和30)年の禎子さんの死から今日までの46年間に、世界各地でさまざまな人々によって、さまざまなものがつくられてきました。 |
●絵本・読み物● 56 |
● 57 ビデオ「つるにのって」のチラシ 日本では2本の |
●記念像・公園● 本を読んだり、実際に「 |
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58 「折り鶴の (所在地:広島市立 外国から広島に寄せられる折り鶴に |
59 「サダコ平和公園」と「サダコ像」 (所在地:アメリカ・シアトル市) 故フロイド・シュモー氏が中心となり、1990(平成2)年に像と公園を造りました。等身大の像の 「佐々木禎子/平和の子供/ と刻まれています。 |
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60 「子供の平和像」 (所在地:アメリカ・サンタフェ市) アルバカーキのアロヨ・デル・オソ小学校の3~5年生の子供たちは、「原爆の子の像」の姉妹像建設のため |
61 「サダコ平和庭園」 (所在地:アメリカ・サンタバーバラ市) 1995(平成7)年8月6日、国際平和と安全に関する教育・ |
● 62 ミュージカル 「平和の鳥--広島の 日本では2本ですが、海外ではこれまでにオランダ、ソ連、オーストラリア、カナダ、南アフリカ、アメリカの6カ国で6本が上演されました。 |
●音楽● 63 サダコをテーマにした音楽CDなど 音楽は、絵本や読み物に次いでたくさんの作品が発表されています。日本で10曲、海外ではソ連、モンゴル、アメリカ、ドイツ、オーストラリアの5カ国で10曲です。 |
●絵画・彫刻● 64 サダコは、絵画や彫刻などのテーマにもなりました。この絵は、エレノア・コアの書いた絵本「サダコと千羽鶴」の表紙絵として |
●記念日・行事・賞● 日本で2つ、海外ではソ連とアメリカの2カ国で2つあります。 |
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「原爆の子の像」 毎年7月の第3日曜日に広島市内の小・中学生が「原爆の子の像」の前に集まり、平和の願いを発信する行事を行っています。この行事は、広島市立 |
「折り鶴の日」 禎子さんが |
「サダコ平和の日」の 1996(平成8)年8月6日、サンタバーバラ市長は、毎年8月6日を「サダコ平和の日」(広島の原爆で罪の無い一人の子供の命が失われたことを |
「4人の少女記念賞」(ソ連) |
折り |
サダコの物語に感動した人々は、サダコやサダコの友人に自分を重ねあわせ、自分の願いや思いを こうして折り鶴は、国内のみならず世界各地から広島に集まってくるのです。「原爆の子の像」に寄せられた折り鶴などから、サダコの広がりを |
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65 平和記念資料館に折り鶴を送付された団体数 |
サダコの世界地図 広島に寄せられる折り鶴とサダコの広がり |
カール・ブルックナーの本はヨーロッパを中心に34カ国・地域で、エレノア・コアの本は地域の |
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66 サダコと折り鶴が広まっている国・地域 アラブ |
サダコと折り鶴に寄せる思い 国内・海外へのアンケートから |
「原爆の子の像」に寄せられる折り鶴には、しばしば、「サダコさんの物語を読んで」などと書かれた手紙やメッセージが アンケートは、1999(平成11)年と2000(平成12)年の2年間に広島市あてに折り鶴を送ってこられた個人や学校・団体の代表者を対象に行いました。(19カ国630人に送付し14カ国240人から回答がありました。)その回答をまとめると、次のとおりです。 |
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●日本● | ●外国● | |
知っている人と知らない人の比率が6:4で、折り鶴を送る人のうちサダコを知っている人は半数を上回る程度です。必ずしもサダコを知って折り鶴を折ったというわけではないようです。 | 折り鶴を送ってきた人のほとんど(10人のうち9人以上)が、サダコを知っています。 | |
<「知っている人」と答えた人への質問> 無回答が約4分の3もあり、何で知ったか分からない人が結構多いと思われます。分かっている中では、本を読むよりもだれかから聞いて知った人が多いようです。「その他」では、コア/ブルックナー/ |
<「知っている人」と答えた人への質問> およそ3人に1人がだれかから聞いて知ったようです。「平和教材」、「コア/ブルックナー/那須の本」を合計すると、回答者の約半数になります。本を通じて物語を知る場合が多いようです。本の中では、コアの本で知った人が多いようです。英語圏の回答者が多く、英語圏でコアの本が広まっていることを |
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67 アンケート結果から 折り鶴とサダコは、日本よりも海外で 国や 特に、外国の人々は、最後まで鶴を折り続けるサダコの |
さまざまな取り組み サダコとの出会いから |
入院中の禎子さんは、生きたいという願いを込めて一心に鶴を折りました。死後、「原爆の子の像」が建立され、さらにカール・ブルックナー、エレノア・コアなどの本に「折り鶴に願いを託した少女・サダコ」として描かれて世界に広まり、人々に深い感動を与える物語となりました。 物語が世界各地に広まる中で、サダコは、命の サダコに出会いメッセージを受け取った人々の中には、自分たちで折り鶴を作るだけでなく、ほかの人々にも伝えようという活動を始める人々がいます。そのうちのいくつかを紹介します。 |
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広島折鶴の会 1958(昭和33)年、「原爆の子の像」の建立がきっかけで結成されました。小・中・高校生の女子が中心になって病院の |
68 サダコ学園 (所在地:スペイン・バルセロナ市) 1968(昭和43)年に |
69 子供のための世界平和プロジェクト (所在地:アメリカ・アイザッカー市) 代表の |
70 広島市立幟町中学校生徒会 |
千羽鶴平和ネットワーク (所在地:オーストラリア・キャンベラ市) 青年期にブルックナーの本でサダコに感動したマーク・バズ夫妻は、世界の子供たちにこの物語を広めようと、1996(平成8)年に「2000年平和のための100万羽折り鶴プロジェクト」(2000年を目標に平和を願う鶴を折ろうという事業)を呼びかけました。 |
71 クウェート大学「平和の鳥プロジェクト」 (所在地:クウェート) クウェートには |
一人の ● ● ● その後のサダコ-ヒロシマから世界へー ●「 ●広がるサダコの物語 最後に ▲TOPにもどる |