きかくてんを見よう
その後のサダコ - ヒロシマから世界へ-
佐々木禎子(ささきさだこ)さんの死をきっかけとした「原爆(げんばく)の子の像」の建立運動は、
全国的な広がりを見せ、約3年後に像が完成しました。
その後、「サダコと折り(づる)の物語」は絵本などの題材となり、世界中に広まることとなります。
中には、(つる)を折ったり、像を造ったりするなどの活動を始める子供(こども)たちも出てきました。
「サダコと折り(づる)の物語」は、禎子(さだこ)さんの死後、今日まで、
子供(こども)たちに平和の大切さを(うった)え、生きることを問いかけ続けているのです。

原爆(げんばく)の子の像」建立へ
禎子(さだこ)さんが通 っていた幟町小学校(のぼりちょうしょうがっこう)の同級生は、
友達を()くしてショックを受けました。
禎子(さだこ)さんのために何か自分たちにできることはないだろうかと思い、
お墓か記念碑(きねんひ)のようなものを建てられないかと考えました。
そんなころ、禎子(さだこ)さんをはじめ原爆(げんばく)()くなった
すべての子供(こども)(れい)(なぐさ)めるための
記念の像を造らないかという話を持ちかけられ、賛成し運動を始めます。
同級生たちの素朴(そぼく)な思いから始まった運動は、
やがて市内の小・中・高校を()き込んだ大きな運動に発展(はってん)しました。

原爆(げんばく)の子の像を作りましょう」
自分たちにできること 全国中学校校長会会場前でのビラ配り
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自分たちにできること

撮影時期不詳(さつえいじきふしょう)佐々木家(ささきけ)

禎子(さだこ)さんの同級生だった6年竹組の子供(こども)たちは、卒業の時にクラスの同窓会組織(どうそうかいそしき)として「団結の会」を結成しました。「団結の会」では、卒業後も禎子(さだこ)さんのお見舞(みま)いを続けようと約束していましたが、秋ごろはお見舞(みま)いになかなか行けなくなっていました。禎子(さだこ)さんに、何もしてあげられなかったという気持ちが消えないまま、何か自分たちにできることはないかとお葬式(そうしき)の後、毎日のように集まっているうち、お墓か記念碑(きねんひ)のようなものを作りたいと考えました。
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全国中学校校長会会場前でのビラ配り

1955(昭和30)年11月12日/広島市公会堂

そのころ、禎子(さだこ)さんをはじめ原爆(げんばく)()くなったすべての子供(こども)(れい)(なぐさ)めるための記念の像を造らないかという話を持ちかけられた「団結の会」は、ちょうど開かれていた全国中学校校長会の会場前で手作りの2000(まい)のビラを配って、全国の中学校に、像を建てることに賛成してくれるように()びかけました。()びかけ人は「広島市立幟町中学(のぼりちょうちゅうがく)1年生()佐々木禎子級友一同(ささきさだこきゅうゆういちどう)」と書きました。
活動のうねり
「広島平和をきずく児童・生徒の会」結成 進むぼきんかつどう
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「広島平和をきずく児童・生徒の会」結成

1956(昭和31)年1月18日/幟町中学校(のぼりちょうちゅうがっこう)

幟町中学校(のぼりちょうちゅうがっこう)には、運動の趣旨(しゅし)に賛同して全国からたくさんの募金(ぼきん)が送られてくるようになりました。反響(はんきょう)の大きさに(おどろ)いた幟町中学校(のぼりちょうちゅうがっこう)では、像の建立を通 じて原爆(げんばく)の実態を知り平和について考えようと市内の小・中・高校に()びかけ、やがて市内各学校の生徒会で組織された「広島平和をきずく児童・生徒の会」が結成されました。
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進む募金活動(ぼきんかつどう)

1956(昭和31)年4月8日/福屋百貨店前

「広島平和をきずく児童・生徒の会」を中心に「団結の会」のメンバーも加わって募金活動(ぼきんかつどう)は進められ、その年の4月1日には全国の学校へ向けて募金(ぼきん)()びかける「趣意書(しゅいしょ)」を発送するなど、本格的な募金活動(ぼきんかつどう)を開始しました。この運動は、すでに新聞、ラジオなどで報道され始めていたこともあり、全国の学校からの反応は素早いものでした。禎子(さだこ)さんの死から1年後の10月には平和記念公園へ設置することが決まり、像の建立は現実のものになりました。
像の完成
「げんばくのこのぞう」のじょまくしき 43
原爆(げんばく)の子の像」の除幕式(じょまくしき)

1958(昭和33)年5月5日/平和記念公園

像建立の運動を始めて約2年半。多くの人の努力や善意(ぜんい)によって、ようやく完成した像を、人々はそれぞれの思いで見詰(みつ)めていました。この原点である同級生の一人は、この像は禎子(さだこ)さんそのものだったと言います。
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その後の平和活動

1962(昭和37)年11月4日/「折鶴(おりづる)の会」事務所

「広島平和をきずく児童・生徒の会」の目的は、「原爆(げんばく)の子の像」を建てることだけではありませんでしたが、像の完成後、その活動は急に(おとろ)えていきました。一方で、映画(えいが)千羽鶴(せんばづる)」の製作の関係者を中心に1958(昭和33)年「折鶴(おりづる)の会」が結成されました。写 真は禎子(さだこ)さんの慰霊(いれい)の集いを行う「折鶴(おりづる)の会」。
「折りづるの会」
活動の波紋(はもん)
えいが「せんばづる」のポスター
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映画(えいが)千羽鶴(せんばづる)」のポスター

像の建立運動と共に、映画(えいが)が作られたり、雑誌(ざっし)紹介(しょうかい)されるなど、さまざまな形で禎子(さだこ)さんのことが世間に紹介(しょうかい)されていきました。こうしたことが後に「サダコと折り(づる)の物語」を広めるきっかけにもなりました。
ビラ
46 全国中学校校長会の会場前で像建立を()びかけたビラ

かいほう
48「広島平和をきずく児童・生徒の会」の会報

式次第
50 「原爆(げんばく)の子」の像除幕式(じょまくしき)の式次第
ついとうぶんしゅう「こけし」
47 同級生らによって作られた禎子(さだこ)さんの追悼文集(ついとうぶんしゅう)「こけし」

げきれいの手紙
49 北海道から「広島平和をきずく児童・生徒の会」あてに送られた激励(げきれい)の手紙

シナリオ
51 映画(えいが)千羽鶴(せんばづる)」のシナリオ

  一人の被爆少女(ひばくしょうじょ)の死ー佐々木禎子(ささきさだこ)さん12(さい)
 禎子(さだこ)さんが生きた4675日
 (わたし)の中の禎子(さだこ)さん
 禎子(さだこ)さんが()くなった1955(昭和30)年のヒロシマ

その後のサダコ-ヒロシマから世界へー
 ●「原爆(げんばく)の子の像」建立へ
 ●広がるサダコの物語

最後に
 御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関

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