きかくてんをみよう


市民の手によるヒロシマの記録
被爆(ひばく)当時の悲惨(ひさん)状況(じょうきょう)が、人々の記憶(きおく)から消え去ることはありません。水を求め苦しみながら()くなった多くの人々の無念の思い、当時の状況(じょうきょう)を何とかして伝えたいという願いから、「原爆(げんばく)の絵」募集(ぼしゅう)キャンペーンでは多くの絵をお()せいただきました。これらの絵は、市民の手による原爆被災(げんばくひさい)の記録であり、核兵器(かくへいき)が人間に何をもたらすかを(しめ)貴重(きちょう)な「証言(しょうげん)」でもあります。このコーナーでは絵の一部を紹介(しょうかい)し、当時撮影(さつえい)された写真や当館が所蔵(しょぞう)する被爆資料(ひばくしりょう)とあわせて、ヒロシマの状況(じょうきょう)を明らかにしていきます。

きのこ雲

原爆(げんばく)爆発(ばくはつ)による大気の急激(きゅうげき)な変化で発生した雲は、成層圏(せいそうけん)にまで達し、数キロメートルに(わた)ってキノコの(かさ)のように広がりました。その様子は県内各地のみでなく遠く県外からも目撃(もくげき)され、多くの人々を不安にさせました。
  焼け跡に残る電車の残骸
38 白い雲が(いきお)いよく立ち上りやがて真っ黒い雲になった
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分
爆心地(ばくしんち)から約32km 山県郡壬生町(やまがたぐんみぶまち)現在(げんざい)の山県郡千代田町)




倒壊(とうかい)した家屋

爆風(ばくふう)圧力(あつりょく)は、爆心地(ばくしんち)から500メートルのところで1平方メートルあたり19トンという強大なものでした。爆心地(ばくしんち)から半径2キロメートルまでの木造家屋(もくぞうかおく)はほとんど倒壊(とうかい)し、多くの人が一瞬(いっしゅん)にしてその下敷(したじ)きになりました。
  
廃墟に立つ焦げたクスノキ
39 「お父ちゃん、お母ちゃんがこの下におるんじゃ!」と()(さけ)ぶ男の子
爆心地(ばくしんち)から約1,200m 鷹野橋停留所付近(たかのばしていりゅうしょふきん)
  人々に大切にされた大クスノキ
40 (たお)れた家から()い出すと想像(そうぞう)(ぜっ)した姿(すがた)(のが)れていく多くの人々がいた
1945(昭和20)年8月6日
爆心地(ばくしんち)から約1,200m 寺町



火災(かさい)

市内のいたるところで、(たお)れた建物から火の手があがり、天をも()がす(いきお)いで()(つづ)けました。人々は(きず)つきながら、黒煙(くろけむり)(ほのお)の中を()げましたが、建物の下敷(したじ)きになったまま焼け死んだ人も数多くいました。

   
子どもたちでにぎわった夜店
41 空いっぱいに(けむり)が広がる市街
爆心地(ばくしんち)から約4,200m
陸軍船舶練習部(りくぐんせんぱくれんしゅうぶ) 宇品町(うじなまち)

  焼け跡に残る母子の遺体
42 気がつくと家の焼ける音がし下敷(したじ)きになった人が助けを求めていた
1945(昭和20)年8月6日


43 けがをした男の子を背負(せお)って橋を(わた)
1945(昭和20)年8月6日午前9時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約1,500m 三篠橋(みささばし)




黒い雨

大火災(だいかさい)になった市内では、強烈(きょうれつ)火事嵐(かじあらし)竜巻(たつまき)が起こり、爆発(ばくはつ)の20~30分後(ごろ)から、市の北西部には大雨が()りました。最初の1~2時間は、(どろ)やチリ、すすなどを(ふく)んだ大粒(おおつぶ)の黒い雨で、放射能(ほうしゃのう)(ふく)まれていました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
46 放射能(ほうしゃのう)を帯びた黒い雨のあとが残った白壁(しらかべ)
  町内あげての防空演習
44 火の手を(のが)河原(かわら)(のが)れた負傷者(ふしょうしゃ)たちに()る黒い雨
1945(昭和20)年8月6日
爆心地(ばくしんち)から約1,300m 天満町


町内あげての防空演習
45 (はげ)しく()る黒い雨に急に寒さを覚え電車の中で雨をしのぐ
1945(昭和20)年8月6日午前10時~10時30分(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約1,300m 天満町




避難(ひなん)する人々

原爆(げんばく)による惨禍(さんか)は全市に(およ)び、(きず)ついた人々は、安全な場所を求めて(ほのお)黒煙(くろけむり)の中を()(まど)いました。皆衣服(みないふく)を焼かれ、大火傷(おおやけど)を負い、ほとんど(はだか)で苦しんでいました。避難(ひなん)途中(とちゅう)力尽(ちからつ)き、路上や川で()くなった人も数多くいました。

    焼け跡に残る電車の残骸
47 (ほのお)の海の市内から大火傷(おおやけど)を負って(のが)れてくる人々
1945(昭和20)年8月6日午前8時45分(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約2200m 牛田町(現在(げんざい)の牛田南一丁目)
  町内あげての防空演習
48 大けがを負った(むすめ)背負(せお)った知人
1945(昭和20)年8月6日午後
爆心地(ばくしんち)から約1,100m 舟入町(ふないりちょう)




夜の広島

市内は壊滅状態(かいめつじょうたい)となり、交通や通信も完全に麻痺(まひ)しました。かろうじて生き残った人々は十分な手当てや食事も受けられず、夜を(すご)しました。火災(かさい)は続き、郊外(こうがい)から見た広島の空は真っ赤でした。

   
焼け跡に残る電車の残骸
49 野宿する中、あちこちで遺体(いたい)荼毘(だび)に付されうめき声が聞こえていた
1945(昭和20)年8月6日午後10時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約3,500m 宇品町付近(うじなまちふきん)
 
50 市内の真っ赤な(ほのお)が見え母親や弟妹と(ふる)えながら夜を明かす
1945(昭和20)年8月6日夜
爆心地(ばくしんち)から約3,500m 三滝町付近(みたきちょうふきん)





負傷者(ふしょうしゃ)搬送(はんそう)

いちはやく救援活動(きゅうえんかつどう)を行ったのは、宇品(うじな)陸軍船舶司令部所属部隊(りくぐんせんぱくしれいぶしょぞくぶたい)通称(つうしょう)暁部隊(あかつきぶたい)」)でした。負傷者(ふしょうしゃ)はトラックや汽車、船で、救護所(きゅうごじょ)近郊(きんこう)の市町村に運ばれました。

         
51 負傷者(ふしょうしゃ)郊外(こうがい)へ運ぶトラック
1945(昭和20)年8月6日
爆心地(ばくしんち)から約8km
安佐郡安古市町(あさぐんやすふるいちちょう)現在(げんざい)安佐南区古市(あさみなみくふるいち)
  焼け跡に残る電車の残骸
52 病院に運ばれてきた多くの負傷者(ふしょうしゃ)たち
1945(昭和20)年8月6日午前11時50分(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約26km
賀茂郡西条町(かもぐんさいじょうちょう)現在(げんざい)の東広島市)




水を求める人

原子爆弾(げんしばくだん)による強烈(きょうれつ)な熱線で大火傷(おおやけど)を負った人々は、ボロボロの衣服をわずかにまとい、皮膚(ひふ)のはがれた手を前に出してさ(まよ)いました。火傷(やけど)火災(かさい)、8月の暑さの中、多くの人が水を求め、かなわないまま()くなりました。

 人々に大切にされた大クスノキ 

54 水の出ない水道管をうらめしく見つめている負傷者(ふしょうしゃ

  廃墟に立つ焦げたクスノキ
53 大火傷(おおやけど)を負い水を求めてうめき続ける人々
1945(昭和20)年8月6日午後4時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約1,750m 南大橋



防火水槽(ぼうかすいそう)の死体

市内の各所に防火水槽(ぼうかすいそう)が置かれ、空襲(くうしゅう)による火災(かさい)(そな)えられていました。しかし、原爆(げんばく)による火災(かさい)は、その消火能力(しょうかのうりょく)をはるかに()えており、なすすべもありませんでした。()()を失った人々は、防火水槽(ぼうかすいそう)に入り、そのまま息を引き取りました。

   
子どもたちでにぎわった夜店
56 防火水槽(ぼうかすいそう)に頭を()()んで()くなっている人
  焼け跡に残る母子の遺体
55 防火水槽(ぼうかすいそう)の中で折り重なるように()くなった人々
1945(昭和20)年8月7日午後1時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約1,000m 鉄砲町(てっぽうちょう)



川に(ただよ)う死体

人々は、水を求めて川原に下り、また、火災(かさい)に追われ、対岸に(わた)ろうと川に入りました。力尽(ちからつ)きた人々は、水の中で息()えて、川を(ただよ)い、橋脚(きょうきゃく)によどみ、太田川は死体で()()くされました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
57 川面に(ただよ)う何千という(ふく)れ上がった死体
1945(昭和20)年8月7日
元安川

  町内あげての防空演習
58 橋桁(はしげた)片足(かたあし)が引っかかり()れている全裸(ぜんら)の死体
1945(昭和20)年8月7日
爆心地(ばくしんち)から約2,250m 御幸橋(みゆきばし)




()(あと)の死体

()えるものはすべて()えつくして、ようやく、火災(かさい)はおさまりました。()(あと)には、建物の下敷(したじ)きになったまま焼け死んだ人々の黒焦(くろこ)げの死体が横たわっていました。大人も子どもも男性(だんせい)女性(じょせい)犠牲(ぎせい)になった人は数知れません。

    焼け跡に残る電車の残骸
60 人骨(じんこつ)鉄片(てっぺん)()ざったもの
爆心地(ばくしんち)から約200m
中島本町(現在(げんざい)の中島町)
 
59 市内電車から()りようとしている姿(すがた)黒焦(くろこ)げの女性(じょせい)の死体とその足元の(あか)(ぼう)の死体

町内あげての防空演習
61 ()(あと)に横たわる黒焦(くろこ)げでパンパンに(ふく)れた死体
1945(昭和20)年8月7日午前10時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約450m 小町(現在(げんざい)の中町)




焼け野原になった街

爆心地(ばくしんち)から半径2キロメートル以内の地域(ちいき)は、一望の焦土(しょうど)と化し、倒壊(とうかい)をまぬがれた鉄筋(てっきん)コンクリート(づく)りの建物がわずかに残るだけでした。生き残った人は、瓦礫(がれき)の中に、バラックを建てて()らしました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
62 廃虚(はいきょ)となった街()
爆心地(ばくしんち)から80m 細工町(現在(げんざい)の大手町一丁目)
 
63 廃虚(はいきょ)となり異様(いよう)(にお)いが鼻をつく街を自転車で行く
1945(昭和20)年8月7日午前9時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から2,250m 御幸橋付近(みゆきばしふきん)



64 ()(あと)にバラックを建てて()らす
1945(昭和20)年8月20日夜
爆心地(ばくしんち)から1,700m 西観音町



動員学徒

中学校以上の学生・生徒たちは、軍需工場(ぐんじゅこうじょう)建物疎開作業現場(たてものそかいさぎょうげんば)に動員されていました。動員学徒約8,400人のうち、約6,300人が()くなりました。市内中心部で建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)を行っていた中学生・女学生の1・2年生からは特に多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を出しました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
67 建物疎開作業現場(たてものそかいさぎょうげんば)で見つかった遺品(いひん)弁当箱(べんとうばこ)
爆心地(ばくしんち)から約500m
材木町(現在(げんざい)の中島町)
 
65 川岸沿()いに折り重なり息()えた動員学徒たち
1945(昭和20)年8月7日早朝 本川


66 (きず)つき()かせられた学徒の中から()が子を(さが)し出し()(くず)れる母親
1945(昭和20)年8月7日 爆心地(ばくしんち)から約1,700m
横川町三丁目



橋の風景

大火災(だいかさい)で何もかも焼失してしまったため、橋は人々が居場所(いばしょ)確認(かくにん)するための貴重(きちょう)な道しるべになりました。避難(ひなん)する人はたどりついた橋の上やたもとで休息し、また、そのまま息を引き取る人もありました

   
焼け跡に残る電車の残骸
68 橋のたもとで馬と共に()くなった馬車引き
爆心地(ばくしんち)から約1,250m 横川新橋
 
69 放心状態(ほうしんじょうたい)(すわ)()む人々
爆心地(ばくしんち)から約1,750m 南大橋


70 衣服をすべて焼かれ橋のたもとに横たわる少女たち
爆心地(ばくしんち)から約300m 相生橋



母と子

原爆(げんばく)犠牲者(ぎせいしゃ)の多くは一般市民(いっぱんしみん)であり、()(あと)には、女性(じょせい)や子どもの死体も多く見られました。とりわけ、(おさな)い子どもをかばったままの母親の死体は、人々の戦争への(いか)りと悲しみを(さそ)いました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
71 ()えた母親をたった一人で見守る小さな女の子
1945(昭和20)年8月7日昼前(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約2,100m 尾長町(おながまち)
 
72 子どもを()いた母親の死体
1945(昭和20)年8月9日



救護所(きゅうごしょ)

焼け残った市内の学校や、近隣(きんりん)の市町村には、救護所(きゅうごじょ)が次々と(もう)けられました。しかし、負傷者(ふしょうしゃ)はあまりにも多く、薬はたちまち底を()きました。医師(いし)看護婦(かんごふ)も不足し、救護所(きゅうごじょ)では、人々の苦しみうめく声が続きました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
73 学校の教室に()かれたムシロの上に()かされた負傷者(ふしょうしゃ)
爆心地(ばくしんち)から約3,100m 旭町(あさひまち)

   

77 手当に使用された医療品(いりょうひん)
焼け跡に残る電車の残骸
 
74 川原に(もう)けられた救護所(きゅうごじょ)(なら)負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月6日午後2時~3時(ごろ)


75 国民学校の教室で治療(ちりょう)を受ける人々
1945(昭和20)年8月7日
爆心地(ばくしんち)から約8km 安芸郡海田市町(現在(げんざい)の安芸郡海田町)


76 負傷者(ふしょうしゃ)にたかるハエをうちわで(あお)女性(じょせい)
1945(昭和20)年8月8日~10日(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約7km 安芸郡海田市町(現在(げんざい)の安芸郡海田町)



ハエとウジ

衛生状態(えいせいじょうたい)非常(ひじょう)に悪く、広島では、大量のハエが発生しました。薬も包帯も不足する中で、むき出しの傷口(きずぐち)には、ハエが(むら)がりウジがわいて異臭(いしゅう)を放ち、いっそう人々を苦しめました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
78 傷口(きずぐち)にわく何十、何百というウジ
1945(昭和20)年8月8日(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約30km 佐伯郡大竹町(さえきぐんおおたけまち)現在(げんざい)の大竹市)

 
79 焼けただれて()れた顔にウジがわいた負傷者(ふしょうしゃ)たち
1945(昭和20)年8月8日から約2週間以内


80 背中(せなか)(きず)にわくウジ
1945(昭和20)年8月16日(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約23km
安佐郡鈴張村(あさぐんすずはりむら)現在(げんざい)安佐北区安佐町鈴張(あさきたくあさちょうすずはり)



死体収容(しゅうよう)火葬(かそう)

()(あと)や川の中には、おびただしい数の死体があり、軍や警防団(けいぼうだん)がその収容(しゅうよう)従事(じゅうじ)しました。死体はすぐに腐臭を放ち、身元を確認(かくにん)する間もなく、次々と荼毘(だび)に付されました。昼夜問わず(いた)る所で、火葬(かそう)(けむり)が上がっていました。
 
81 トラックで集めた死体を川原で火葬(かそう)する
1945(昭和20)年8月17日
爆心地(ばくしんち)から約2,000m 福島町



82 水膨(みずぶく)れし灰色(はいいろ)になった無数の死体
1945(昭和20)年8月8日午後3~4時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約250m 基町(もとまち)



家族を(さが)

(もど)ってこない家族を(さが)して、人々は()(あと)救護所(きゅうごしょ)(たず)ね歩きました。大火傷(おおやけど)を負った人は、目鼻立ちもわからないくらい、顔が()れあがり、声やわずかな持ち物で身元の確認(かくにん)をするしかありませんでした。行方不明のまま、遺骨(いこつ)すら(もど)ってこなかった人もたくさんいました。
 
83 負傷者(ふしょうしゃ)たちの中にか細い声で叔母(おば)()叔父(おじ)を発見する
爆心地(ばくしんち)から約1,700m 横川町三丁目


84 真夏の太陽の下、()えられない異臭(いしゅう)がする中、母を(さが)す6(さい)(わたし)
1945(昭和20)年8月8日



肉親の死

原爆(げんばく)一般市民(いっぱんしみん)への無差別の攻撃(こうげき)でした。多くの人が家族を原爆(げんばく)により(うば)われました。突然(とつぜん)に、理不尽(りふじん)に、愛する人を失った悲しみは、時が経過(けいか)しても決して()えることはありません。
 
85 まだ熱い自宅(じたく)()(あと)から父の遺骨(いこつ)()り出す
1945(昭和20)年8月8日12時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約350m 研屋町(現在(げんざい)の紙屋町一丁目)



86 男の人を見るたびに「お父さんが帰ってきた」と言って追いかける妹
爆心地(ばくしんち)から約4.4km
安佐郡祇園町(あさぐんぎおんちょう)現在(げんざい)安佐南区祇園(あさみなみくぎおん)



急性障害(きゅうせいしょうがい)

被爆(ひばく)直後から短い期間に(あらわ)れた原爆(げんばく)による症状(しょうじょう)急性障害(きゅうせいしょうがい)といいます。原爆(げんばく)特徴(とくちょう)のひとつは、大量の放射線(ほうしゃせん)が一度に放射(ほうしゃ)されたことです。放射線(ほうしゃせん)細胞(さいぼう)破壊(はかい)したり、骨髄(こつずい)などの造血機能(ぞうけつきのう)破壊(はかい)するなどして、人体に深刻(しんこく)障害(しょうがい)を引き起こしました。
 
87 頭髪(とうはつ)()け、皮膚(ひふ)歯茎(はぐき)から出血し、死んでいく人々


88 発熱、脱毛(だつもう)し、眉毛(まゆげ)まで()けて丸坊主(まるぼうず)になった(わたし)
1945(昭和20)年9月



復興(ふっこう)

被爆後(ひばくご)困難(こんなん)状況(じょうきょう)の中でも、人々は生活していかなければなりませんでした。()(あと)にはバラックが建ち、学校も再開(さいかい)されて、子どもたちは青空の下で授業(じゅぎょう)を受けました。そして新しい生命の誕生(たんじょう)もありました。


   
89 生き残った人々で協力し、資材(しざい)を集めてバラックを建てる
1945(昭和20)年9月12日
爆心地(ばくしんち)から約1,250m
下柳町(しもやなぎちょう)現在(げんざい)の銀山町)


   
92 復興(ふっこう)を願い、
()(あと)に立てた旗
 
90 授業(じゅぎょう)再開(さいかい)した己斐国民学校(こいこくみんがっこう)
焼き場(あと)には人骨(じんこつ)がいつまでも見られた

1945(昭和20)年9月18日
爆心地(ばくしんち)から約2,900m 己斐町(こいまち)



91 多くの人が死んでいく中、奇跡的(きせきてき)に命拾いをした母は、無事に赤ちゃんを産んだ
爆心地(ばくしんち)から約70km 比婆郡山内西村(ひばぐんやまのうちにしむら)現在(げんざい)庄原市(しょうばらし)

  原爆(げんばく)の絵
-市民の手によるヒロシマの記録-
 
 ●「伝えたい…平和の願いを、世紀を()えて」
 ヒロシマを体験した人々
 消えた広島の風景
 ●市民の手によるヒロシマの記録
 ●絵を応募(おうぼ)いただいた方のお名前 
 ご協力いただいた方々・機関(きかん)
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