きかくてんをみよう


ヒロシマを体験した人々
このコーナーでは、今回絵をお()せいただいた方の被爆体験(ひばくたいけん)を、その方が(えが)いた絵や手記、被爆資料(ひばくしりょう)証言(しょうげん)ビデオなどで紹介(しょうかい)しています。戦争や原爆(げんばく)破壊(はかい)したのは、ごく普通(ふつう)の人々の()らしであったこと、(うば)われた生命は二度と(もど)らないこと、そして、世界は、今もなお、戦争と(かく)脅威(きょうい)にさらされていることを知っていただきたいと思います。これらは決して遠い過去(かこ)のできごとではなく、将来(しょうらい)(わたし)たちの身のまわりで(ふたた)び起こり得るかもしれないのです。



松本政夫(まつもとまさお)さん
爆心地(ばくしんち)から約800mで被爆(ひばく)

松本政夫(まつもとまさお)さん(当時11(さい))は、国民学校の6年生でした。母親、妹、弟と疎開先(そかいさき)に行く途中(とちゅう)、満員の市内電車の中で被爆(ひばく)しました。母親と小さな妹・弟は、8月中に原爆症(げんばくしょう)のため、()くなりました。また、中国にいた父親は戦病死し、政夫(まさお)さんは、戦争で4人の家族を失いました。



  
焼け跡に残る電車の残骸
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()(あと)に残る電車の残骸(ざんがい)

1945(昭和20)年9月
爆心地(ばくしんち)から約800m 十日市交差点


  町内あげての防空演習
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大混乱(だいこんらん)の車内から外に(のが)れる

1945(昭和20)年8月6日原爆投下(げんばくとうか)直後
爆心地(ばくしんち)から約800m 十日市交差点北側


「十日市電停発車まもなく真暗闇(まっくらやみ)になり、何がなんだかわからない。車内は大混乱(だいこんらん)()()い、もみ合い、外に出た。四方火の海、灼熱(しゃくねつ)地獄(じごく)である。路面が焼き付くように熱い。人々は異様(いよう)姿(すがた)で横川方面に()げる。家屋の下敷(したじ)きになり助けを求める声が聞こえる。」
防空頭巾 6
四方火の海で()()を失い川土手に下りる

1945(昭和20)年8月6日午前8時40分
爆心地(ばくしんち)から約1,290m 横川橋


小舟(こぶね)が上流に向かおうとしていた。水面から水蒸気(すいじょうき)が立ち(のぼ)()えているように見えた。『乗せてください。』と(さけ)んだが、『もう乗れない。』満潮(まんちょう)で土手下を()げることができず、()えさかる道を、シャツを頭からかぶり()けた。(なみだ)(あせ)も出ない。のどが(かわ)き、水が()しい。」



池庄司(いけしょうじ)(久保(くぼ))トミ子さん
爆心地(ばくしんち)から約1,500mで被爆(ひばく)

久保トミ子さん(当時17(さい))は、広島赤十字病院に勤務(きんむ)していました。被爆(ひばく)直後から病院には負傷者(ふしょうしゃ)が助けを求めて殺到(さっとう)しました。トミ子さんは、自身の負傷(ふしょう)もかえりみず、多くの人々の看護(かんご)にあたりました。病棟(びょうとう)患者(かんじゃ)でいっぱいのため、夜は野宿しながらの看護(かんご)でした。



  
焼け跡に残る電車の残骸
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爆風(ばくふう)により大破(たいは)した広島赤十字病院

1945(昭和20)年10月(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約1,500m 千田町一丁目
 
9.10
瓦礫(がれき)の中の子どもの人骨(じんこつ)

1945(昭和20)年8月7日
爆心地(ばくしんち)から約1,500m 千田町一丁目


「院外の民家の(あと)に、子どもの人骨(じんこつ)を見つけました。その瞬間(しゅんかん)、不思議なことに(ほね)可愛(かわい)い子どもの顔に見えたのです。どうしてこんな子どもがここで…かわいそうで(なみだ)も出ませんでした。11月にもう一度行って見ますと、その近くに小さい小さい草の芽が出ていました。」




深町陸夫(ふかまちりくお)さん
爆心地(ばくしんち)から約2,200mで被爆(ひばく)

深町陸夫(ふかまちりくお)さん(当時13(さい))は牛田町の自宅(じたく)被爆(ひばく)しました。家の下敷(したじ)きになった伯母(おば)を助け出し、母親と3人の弟・妹たちと川土手に(のが)れました。父親の(つよし)さんは通勤途中(つうきんとちゅう)で行方不明になり、陸夫さんは(つよし)さんを幾日(いくにち)(さが)し続けましたが、見つけることはできませんでした。

焼け跡に残る電車の残骸
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父の遺品(いひん)となった防弾(ぼうだん)チョッキ

爆心地(ばくしんち)から約2,200m
牛田町(現在(げんざい)の牛田南一丁目)

  町内あげての防空演習
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矢のように()()さる光線

1945(昭和20)年8月6日
爆心地(ばくしんち)から約2,200m 牛田町(現在(げんざい)の牛田南一丁目)


「その時、(すさ)まじい光線がすべての空間に矢のように()()さり、玄関(げんかん)から家を出る寸前(すんぜん)だった(わたし)の体は、爆風(ばくふう)で家や(かべ)家財道具(かざいどうぐ)もろとも()()ばされた。瓦礫(がれき)(うず)もれた(わたし)は、母の()ぶ声に気づくまで気を失っていた。」

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妹を背負(せお)い川に入って父を(さが)


「よく自慢(じまん)していたドイツ(せい)の黒皮バンドの時計を目印に、(わたし)は毎日父を(さが)しまわった。当時満1(さい)になったばかりの背中(せなか)の妹はかすかな息をしながら夏の炎天下(えんてんか)をよく()えてくれた。とうとう(わたし)は父を見つけだすことができなかった。」



安部初子さん
爆心地(ばくしんち)から約1,900mで被爆(ひばく)

安部初子さん(当時24(さい))は生後1カ月の(むすめ)の博子さんと白島九軒(はくしまくけん)町の自宅(じたく)被爆(ひばく)しました。(こわ)れた家から博子さんを()いて脱出(だっしゅつ)し、大火傷(おおやけど)を負った夫の勝茂(かつしげ)さんと郊外(こうがい)(のが)れました。2日後、実家の福岡市(ふくおかし)に帰り、治療(ちりょう)を受けましたが、博子さんは9月に()くなりました。

  
被爆時に着ていたブラウス
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被爆(ひばく)時に着ていたブラウス

爆心地(ばくしんち)から約1,900m 白島九軒町(はくしまくけんちょう)
  こどもを抱き郊外に避難する
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子どもを()き夫と郊外(こうがい)避難(ひなん)する

1945(昭和20)年8月6日

「夫は顔から皮膚(ひふ)がぶらさがり、服も(やぶ)れ、手や足の皮膚(ひふ)もむけています。(わたし)は頭や顔から血が流れ、手の(ほね)も折れ、それでも子どもを()かねばなりません。お(ちち)が出ないので、博子は泣くし、(わたし)(なみだ)が出てきます。悲しくて悲しくて、親子3人泣きながら歩きました。」



山崎寛治(やまざきかんじ)さん
爆心地(ばくしんち)から約1,800mで被爆(ひばく)

現在(げんざい)の平和記念公園一帯は、被爆(ひばく)前は広島でも有数の繁華街(はんかがい)でした。山崎寛治(やまざきかんじ)さん(当時17(さい))の家はちょうど平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)の位置にありました。勤務先(きんむさき)被爆(ひばく)した寛治(かんじ)さんは、翌日(よくじつ)ようやく自宅(じたく)(もど)りましたが、一面の焼け野原で、母親、叔母(おば)、5人の従弟(いとこ)たちはみな()くなりました。

   焼け跡から掘り出した小皿
  

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自宅(じたく)()(あと)から()り出した小皿

爆心地(ばくしんち)から約350m
天神町(現在(げんざい)の中島町)

  防火水槽の死体
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瓦礫(がれき)の中の死体、防火水槽(ぼうかすいそう)の死体

1945(昭和20)年8月7日 爆心地(ばくしんち)から約350m
天神町(現在(げんざい)の中島町)


瓦礫(がれき)ばかりで、目に見えるものは死体以外何もありません。防火用水(ぼうかようすい)に4、5人の人が、同じような姿(すがた)で同じような方向を向いて入って死んでいました。水、水、と言う声は聞こえましたけれど、私自身(わたしじしん)が助けるような状態(じょうたい)でもありませんし、何も考える余地(よち)が無かったです。」




篠山益治(ささやまえきじ)さん
爆心地(ばくしんち)から約3,200mで被爆(ひばく)

篠山益治(ささやまえきじ)さん(当時26(さい))は広島師団(ひろしましだん)111部隊に所属(しょぞく)で、新庄町(しんじょうちょう)高射砲陣地(こうしゃほうじんち)派遣(はけん)されていました。兵舎(へいしゃ)休憩(きゅうけい)している時に被爆(ひばく)しました。本隊から避難(ひなん)してきた負傷兵(ふしょうへい)看護(かんご)にあたり、また、基町(もとまち)の西練兵場で死体収容(しゅうよう)火葬(かそう)の作業を行いました。



   
水筒と担架のかわりにしたテント用布
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作業時に身につけていた水筒(すいとう)担架(たんか)のかわりにしたテント用(ぬの)


  黒こげの遺体を運び出し火葬する
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黒焦(くろこ)げの遺体(いたい)を運び火葬(かそう)する

1945(昭和20)年8月7日 爆心地(ばくしんち)から約400m
基町(もとまち)


黒焦(くろこ)げの遺体(いたい)になっている者、立ち上がることができずもがき苦しんでいる者、灼熱(しゃくねつ)炎天下(えんてんか)で丸()げや半焦(はんこ)げの悪臭(あくしゅう)がただよう操練場(そうれんじょう)での作業はもっぱら遺体(いたい)運びと火葬(かそう)でした。焼け残りの材木と遺体(いたい)交互(こうご)に積み重ね火をつける作業が毎日続きました。」
火傷を負った死直前の兵士
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火傷(やけど)を負った死直前の兵士

爆心地(ばくしんち)から約3,200m
新庄町(しんじょうちょう)


「本部からたどりついた将兵(しょうへい)たちの看護(かんご)をしました。薬はなく、(みんな)水を()しがるだけで衰弱(すいじゃく)して()くなりました。この兵士は、見開いたままの目で、手は曲げることができず、かすかなうめき声を出しながら、この姿勢(しせい)のまま仰向(あおむ)けに(たお)れて息が()えました。」



堀本(ほりもと)(赤松)春野さん
爆心地(ばくしんち)から約2,700mで被爆(ひばく)

赤松春野さん(当時16歳(16さい))は広島電鉄家政女学校(ひろしまでんてつかせいじょがっこう)の生徒でした。皆実町(みなみまち)二丁目の(りょう)被爆(ひばく)し、避難場所(ひなんばしょ)井口村(いのくちむら)まで(のが)れ、そこで()くなっていく同級生を看取(みと)りました。また8月9日からは復旧(ふっきゅう)した市内電車に乗務(じょうむ)しました。爆心地(ばくしんち)近くで被爆(ひばく)した母親は行方不明のままです。


   
市内を走る被爆電車
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市内を走る「被爆電車(ひばくでんしゃ)

1995(平成7)年4月
大手町四丁目


焼け野原となった街に動き出した電車の姿(すがた)は、市民を大いに力づけました。現在(げんざい)でも4両の「被爆電車(ひばくでんしゃ)」が現役(げんえき)で運行を続けています。
  体中に斑点が出て亡くなった友
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髪の毛(かみのけ)()け体中に斑点(はんてん)が出て()くなった友

爆心地(ばくしんち)から約7,750m
佐伯郡井口村(さえきぐんいのくちむら)(現在(げんざい)の西区井口(いのくち)丁目(ちょうめ))


渡り廊下(わたりろうか)(すわ)()んでいる時、知り合いが(わたし)を見つけて、薬を飲ませてくださり、次の日は動かれるようになりました。(となり)()ていた友だちは体中に斑点(はんてん)が出て『海は広いな大きいな』の童謡(どうよう)をくり返しながら、()かれました。」


復旧一番の電車の車内
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復旧(ふっきゅう)一番電車の車内

1945(昭和20)年8月9日

「『お金のない人からは、電車賃(でんしゃちん)もらわんでもええで』ということでした。運行時間も休み時間もなく、お客がおおよそ(すわ)られたら発車するといった具合でした。『電車が動くんか』と(おどろ)かれる人、ありがたがる人、色々でした。電車賃(でんしゃちん)(はら)えない人も多かったように思います。」

  原爆(げんばく)の絵
-市民の手によるヒロシマの記録-
 
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