きかくてんをみよう


消えた広島の風景
このコーナーでは、被爆(ひばく)前の街の風景と被爆後(ひばくご)惨状(さんじょう)対比(たいひ)させて紹介(しょうかい)しています。戦前の広島には、家や商店が立ち(なら)び多くの人々が()らしていました。映画館(えいがかん)や商店街は人々でにぎわい、川や路地裏(ろじうら)などは子どもたちの格好(かっこう)の遊び場でした。しかし、こうした(おだ)やかな風景も戦争が始まると次第に少なくなり、原爆(げんばく)により完全に失われてしまったのです。市内は(ほのお)につつまれて廃虚(はいきょ)と化し、負傷者(ふしょうしゃ)があふれ、数(かぎ)りない犠牲者(ぎせいしゃ)が川や()(あと)で見られました。

広島県産業奨励館(ひろしまけんさんぎょうしょうれいかん)
猿楽町(さるがくちょう)現在(げんざい)の大手町一丁目)
爆心地
(ばくしんち)
から約160m


1915(大正4)年、外国人の設計(せっけい)による洋風建築(ようふうけんちく)出現(しゅつげん)しました。ドーム型の屋根を持ち、川に面して入口がある斬新(ざんしん)なデザインで、広島名所の一つとなりました。その産業奨励館(さんぎょうしょうれいかん)も、火災(かさい)により炎上(えんじょう)し、被爆後(ひばくご)は「原爆(げんばく)ドーム」として核兵器(かくへいき)(おそ)ろしさを(わたし)たちに伝えています。

被爆前の原爆ドーム
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川沿(かわぞ)いに立つ産業奨励館(さんぎょうしょうれいかん)
  炎につつまれた産業奨励館 25
(ほのお)につつまれた産業奨励館(さんぎょうしょうれいかん)

1945(昭和20)年8月6日午前9時30分(ごろ)



国泰寺(こくたいじ)のクスノキ
小町(現在(げんざい)の中町)
爆心地(ばくしんち)から約400m


国泰寺(こくたいじ)には、樹齢(じゅれい)300年といわれる天然記念物のクスノキがありました。クスノキの根を守るため市内電車の軌道(きどう)迂回(うかい)し、歩道は高く()り上げられていました。原爆(げんばく)により()()げ、以後、新しい芽を()くことはなく()れて、現在(げんざい)はその姿(すがた)を見ることはできません。

  廃墟に立つ焦げたクスノキ
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廃虚(はいきょ)に立つ()()げたクスノキ

1945(昭和20)年10月
  人々に大切にされた大クスノキ
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人々に大切にされた大クスノキ

1912(大正元)年



横堀町(よこぼりちょう)現在(げんざい)の西十日市町)
爆心地(ばくしんち)から約1,000m


戦前、街の通りには、夜店が立ち(なら)び、本やお菓子(かし)など、子どもたちは楽しみながら見回ったものでした。戦争でこのような光景は見られなくなり、原爆(げんばく)により一般市民(いっぱんしみん)も無差別に犠牲(ぎせい)となりました。(おさな)い子どもとそれを守ろうとした母親の姿(すがた)がいたる所で見られました。

   
子どもたちでにぎわった夜店

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子どもたちでにぎわった夜店

1941(昭和16)年(ごろ)
  焼け跡に残る母子の遺体
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()(あと)に残る母子の遺体(いたい)

1945(昭和20)年8月7日



天満町
爆心地(ばくしんち)から約1,300m

戦前の広島は、大きな通りに商店がびっしりと立ち(なら)んでいました。通りにつながる路地がいくつもあり、路地裏(ろじうら)は子どもたちの遊び場でした。しかし、にぎわいをみせていた街は()()くされ、人々の死体が横たわりました。死体収容(しゅうよう)火葬(かそう)の作業は何日も続きました。
   
通りの両側に立ち並ぶ商店
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通りの両側に立ち(なら)ぶ商店

1941(昭和16)年11月
  大八車に積み重ねられて運ばれる死体
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大八車に積み重ねられて運ばれる死体

1945(昭和20)年8月7日昼頃(ひるごろ)




住吉橋(すみよしばし)
爆心地(ばくしんち)から約1,400m


住吉神社(すみよしじんじゃ)の夏祭りは盛大(せいだい)で、人々は、立ち(なら)露店(ろてん)で買い物をし、橋の上で花火や「御供船(おともんぶね)」と()ばれる祭りの船に見入ったものでした。被爆後(ひばくご)、橋の上には火災(かさい)(のが)れてきた負傷者(ふしょうしゃ)が集まり、助けを求めていました。そのまま息を引き取る人も数多くいました。

   橋いっぱいの祭りの見物客
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橋いっぱいの祭りの見物客
  橋の上に座り込んだ負傷者
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橋の上にすわりこんだ負傷者(ふしょうしゃ)たち

1945(昭和20)年8月6日午後2時前



長寿園(ちょうじゅえん)
現在(げんざい)の西白島町から白島北町) 爆心地(ばくしんち)から約1,500m

太田川沿()いの長寿園(ちょうじゅえん)とその対岸には、たくさんの(さくら)が植えられ、春になると花見をする人々でにぎわいました。被爆後(ひばくご)、川岸には火災(かさい)から(のが)れてきた多くの負傷者(ふしょうしゃ)が集まり、救護(きゅうご)所が設置(せっち)されました。また、土手沿()いには郊外(こうがい)避難(ひなん)しようとする人々の列が続きました。

   
焼け跡に残る電車の残骸
34 土手沿()いに満開の桜並木(さくらなみき)
 
35 避難場所(ひなんばしょ)となった(さくら)の名所
1945(昭和20)年8月6日




広島駅付近
松原町 爆心地(ばくしんち)から約1,900m

広島駅の南側、松原町には、町名の由来となった松並木(まつなみき)がありました。公設市場(こうせついちば)や活動写真館が(もう)けられ、飲食店や旅館が(のき)を連ねていました。原爆(げんばく)により、街は壊滅(かいめつ)し、鉄筋(てっきん)コンクリート(づく)りの広島駅は外観だけ残して全焼しました。しかし、主要な鉄道線路は数日間で復旧(ふっきゅう)し、負傷者(ふしょうしゃ)救援(きゅうえん)の人々を運ぶ拠点(きょてん)となりました。
    
焼け跡に残る電車の残骸
36 松並木(まつなみき)と飲食店が(のき)を連ねた広島駅前
1935(昭和10)年(ごろ)
 
37 廃虚(はいきょ)に残った広島駅
1945(昭和20)年10月(ごろ)

  原爆(げんばく)の絵
-市民の手によるヒロシマの記録-
 
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