きかくてんをみよう
はじめに
 人類史上最初の原子爆弾(げんしばくだん)が投下されてから、今年で58年が経過(けいか)しようとしています。しかし、21世紀を(むか)えた今日でも核兵器(かくへいき)の開発は続き、核保有国(かくほゆうこく)はそれを手放そうとしないばかりか、さらに核拡散(かくかくさん)危機(きき)(むか)えています。一方、被爆者(ひばくしゃ)高齢化(こうれいか)し、被爆体験(ひばくたいけん)を語れる人は、日に日に少なくなっています。このような状況(じょうきょう)の中で、平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)は、被爆(ひばく)を体験された方に当時の状況(じょうきょう)を絵で残していただくために、NHK広島放送局、中国新聞社等と共同で「原爆(げんばく)の絵」を募集(ぼしゅう)しました。
 この企画展(きかくてん)では、今回のキャンペーンで()せられた絵を中心に、市民の目から見た原爆(げんばく)がどのようなものであったかを紹介(しょうかい)しています。これらの絵が多くの方の目に(とど)まり、戦争を知らない(わか)い世代に原爆被害(げんばくひがい)の実相を伝えていくための一助となれば幸いです。

1945年8月6日の写真
原爆投下(げんばくとうか)直後、広島にいた人々に何が起こったのか、それを(しめ)す写真はごくわずかしかありません。中国新聞社のカメラマンであった松重美人さんが撮影(さつえい)した御幸橋西詰(みゆきばしにしづめ)の2(まい)(みな)実町三丁目の1(まい)、これが被爆(ひばく)当日市内で被災(ひさい)した人々を撮影(さつえい)した写真のすべてでした。
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負傷者(ふしょうしゃ)応急(おうきゅう)手当てをする警察官(けいさつかん)

1945(昭和20)年8月6日午前11時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約2,270m 御幸橋西詰(みゆきばしにしづめ)


「そこには火傷(やけど)皮膚(ひふ)がずるむけになった重傷者(じゅうしょうしゃ)()れがあった。(わたし)はこの惨状(さんじょう)を写真に()ったが、瀕死(ひんし)の苦しみにある人たちは(わたし)をなんと見たであろう。何百人の()が見ているようで、2(まい)のシャッターを切るのがやっとだった。」
負傷者の応急手当をする警察官

「伝えたい…平和の願いを、世紀を()えて」
原爆(げんばく)の絵」募集(ぼしゅう)キャンペーン 被爆体験(ひばくたいけん)を記録し伝えていくために、「伝えたい…平和の願いを、世紀を()えて」をテーマに行われたキャンペーンに()せられた絵は、2002(平成14)年4月から7月までの間に、広島で484人の方から1,338(まい)長崎(ながさき)で130人の方から300(まい)に達しました。
会場風景
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被爆者(ひばくしゃ)(えが)いた「原爆(げんばく)の絵」(てん)

2003(平成15)年2月
NHKスタジオパーク 
東京都渋谷区(とうきょうとしぶやく)

「市民が(えが)いた原爆(げんばく)の絵」と「わがなつかしの広島」

原爆(げんばく)の絵」が集められたのは初めてではありません。1974(昭和49)年と1975(昭和50)年、NHK広島放送局が行った()びかけに2,225(まい)の絵が()せられました。また、1976(昭和51)年から1978(昭和53)年には、やはりNHKが「わがなつかしの広島」をテーマに、被爆(ひばく)前の街の様子や市民生活などを(えが)いた絵793(まい)収集(しゅうしゅう)しています。これらの絵は、現在(げんざい)平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)所蔵(しょぞう)しています。このたび、収集(しゅうしゅう)した「原爆(げんばく)の絵」も加えて、貴重(きちょう)被爆関連資料(ひばくかんれんしりょう)として、被爆体験継承(ひばくたいけんけいしょう)
のために、活用していく予定です。







「わがなつかしの広島」
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ありし日の国泰寺(こくたいじ)のクスノキ

小町(現在(げんざい)の中町)
 
収集(しゅうしゅう)のきっかけとなった2(まい)の絵
「市民が(えが)いた原爆(げんばく)の絵」
万台橋の状況
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万代橋付近の状況(じょうきょう)

1945(昭和20)年8月6日午後4時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約890m 万代橋

国泰寺のクスノキ
 

  原爆(げんばく)の絵
-市民の手によるヒロシマの記録-
 
 ●「伝えたい…平和の願いを、世紀を()えて」

 ヒロシマを体験した人々
 消えた広島の風景
 ●市民の手によるヒロシマの記録
 ●絵を応募(おうぼ)いただいた方のお名前 
おわりに
 ご協力いただいた方々・機関(きかん)
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