たくましく生きる子どもたち 2
ぶらんこに乗って
ぶらんこは子どもたちのお気に入りでした。
光の園摂理の家
提供/光の園摂理の家
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迷子収容所
1945年(昭和20年)8月8日、比治山国民学校に迷子収容所ができ、原爆の投下により家や肉親を失った子ど もたちが暮らしていました。
1945年(昭和20年)末ころ 東雲町(現在の上東雲町)、比治山国民学校
撮影/川本俊雄氏 提供/広島原爆被災撮影者の会
孤児の収容施設
※被爆後、最初に開設された場所を示しています。
地図は現在の広島市域を表しています。
テクノコ白地図イラストより作成
育成日誌
広島戦災児育成所では、孤児となった子どもたちが集団生活を送っていました。この日誌には、1945年(昭和20年)12月から1948年(昭和23年)3月までの2年あまり、毎日の出来事や食事内容、子どもたちに接する先生の心情などが書かれています。
所蔵/広島市公文書館
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畑仕事
食料不足のため、子どもたちはいつもお腹を空かせていました。畑仕事に励み、芋やかぼちゃを収穫して、食料の確保につとめました。
似島学園
提供/似島学園 |
思わず万歳
ララ(公認アジア救済連盟)は、アメリカ、カナダ、中南米の各地から集まった資金や物資を、日本に送る窓口となった民間の団体です。見たこともないような衣類、食料に思わずみんな万歳をしました。
1947年(昭和22年)4月23日 似島学園
提供/似島学園