こどもたちの見た戦争

はだしのゲンとともに

たくましく生きる子どもたち

 1945年(昭和20年)に実施(じっし)された学童(がくどう)疎開(そかい)によって、多くの子どもたちが原爆(げんばく)直撃(ちょくげき)(まぬが)れました。しかし、市内中心部では原爆(げんばく)による一家全滅(ぜんめつ)の例も多く、両親を失った孤児(こじ)を多数生み出す結果ともなりました。その数は2,000人から6,500人といわれていますが、実態(じったい)正確(せいかく)にはつかめていません。
 戦後、身寄(みよ)りのない子どもたちは、広島戦災(せんさい)()育成所などの収容(しゅうよう)施設(しせつ)に引き取られました。しかし、施設(しせつ)での生活になじめず()げ出した子どもたちや、救援(きゅうえん)の手が回らなかった子どもたちもいて、(かれ)らは、浮浪(ふろう)孤児(こじ)となって自らの力で生きていかなければなりませんでした。
 収容(しゅうよう)施設(しせつ)での生活も決して(めぐ)まれたものではなく、いかに食料を確保(かくほ)するかが大きな課題でした。ララなどによる海外からの援助(えんじょ)物資(ぶっし)の送付や、精神的(せいしんてき)養子(ようし)縁組(えんぐみ)を結ぶ精神(せいしん)養子(ようし)運動は、子どもたちにとって経済的(けいざいてき)精神的(せいしんてき)(ささ)えとなりました。

(くつ)みがき

原爆(げんばく)で多くの子どもたちが肉親を失いました。生きていくためには働かなければなりませんでした。また、家族がいても、生活のために働く子どもたちがたくさんいました。
1948年(昭和23年)広島駅前
撮影/佐々木雄一郎氏 提供/塩浦雄悟氏

ゲンの周りにはたくさんの原爆(げんばく)孤児(こじ)がいました。隆太(りゅうた)やドングリ、ムスビ、勝子たちは、自分たちで生活費を(かせ)いで、子どもたちだけで()らしていました。


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