平和の象徴(しょうちょう)

 平和記念都市建設法(としけんせつほう)によって、恒久(こうきゅう)平和を記念する施設(しせつ)建設計画(けんせつけいかく)(ふく)められることになった。広島市の象徴(しょうちょう)である平和記念公園と平和大通り。しかし、その完成までには紆余曲折(うよきょくせつ)があった。資金難(しきんなん)や立ち退()き問題による工事の中断(ちゅうだん)。都市の美観より住宅不足(じゅうたくぶそく)に苦しむ市民を優先(ゆうせん)すべきだという批判(ひはん)
都市計画と市民生活、佐々木(ささき)氏にとっては、どちらも広島の現実(げんじつ)であった。

■平和記念公園
 平和記念資料館(しりょうかん)

広島平和記念都市建設法(としけんせつほう)制定(せいてい)を目前にした昭和24(1949)年4月、中島地区(およ)原爆(げんばく)ドーム周辺区域(しゅうへんくいき)に、記念公園と記念館を設計(せっけい)する競技設計(きょうぎせっけい)実施(じっし)された。当時、東京大学助教授(じょきょうじゅ)であった丹下健三(たんげけんぞう)氏らのグループが1等入選。昭和26(1951)年2月に平和記念資料館(しりょうかん)、昭和27(1952)年3月に平和記念公園の建設(けんせつ)が始まった。

足場の組まれた平和記念資料館(しりょうかん)

昭和26(1951)年
材木町(現在(げんざい)の中島町)

「平和記念陳列館(ちんれつかん)」の名称(めいしょう)建設(けんせつ)が始まった平和記念資料館(しりょうかん)支柱(しちゅう)の間から原爆(げんばく)ドームを望む。整地中の平和記念公園にはバラックが密集(みっしゅう)している

建設中(けんせつちゅう)の平和記念資料館(しりょうかん)日雇(ひやと)い労働者

昭和26(1951)年
材木町(現在(げんざい)の中島町)

平和記念公園の整地や資料館(しりょうかん)建設工事(けんせつこうじ)には、失業対策(しつぎょうたいさく)事業(じぎょう)として、被爆者(ひばくしゃ)復員軍人(ふくいんぐんじん)等の日雇(ひやと)い労働者が多数()てられた。日当を受け取りに来た人々を相手に、行商人がパンやおにぎりを売っている。
 

整地が進む平和記念公園

昭和27(1952)年
中島本町(現在(げんざい)の中島町)

平和記念公園の整地作業は南から徐々(じょじょ)に進行し、密集(みっしゅう)するバラックは次第に姿(すがた)を消して
いった。右端(みぎはし)の白い建物は燃料会館(ねんりょうかいかん)。元安川をはさんで、原爆(げんばく)ドームと広島商工会議所。