都市の再建(さいけん)

 昭和24(1949)年、広島平和記念都市建設法(としけんせつほう)が成立。国有地の無償譲与(むしょうじょうよ)国庫補助(こっこほじょ)増率(ぞうりつ)は、広島市の復興(ふっこう)に活路を開き、街路・公園緑地・河岸(かがん)緑地の建設(けんせつ)と、そのための用地確保(ようちかくほ)本格的(ほんかくてき)に始まった。
 刻々(こっこく)と変化する広島の街を記録するため、佐々木(ささき)氏は日々、自転車を()って撮影(さつえい)に出かけた。

■橋と道路

原爆(げんばく)と、その後の台風・豪雨(ごうう)による被害(ひがい)で、流失・落橋し通行不能(つうこうふのう)となった橋は20橋近くに(およ)んだ。間もなく応急的(おうきゅうてき)復旧工事(ふっきゅうこうじ)が行われたが、()()えには、多額(たがく)の費用を要した。
広島平和記念都市建設法(としけんせつほう)制定後(せいていご)ようやく、本格的(ほんかくてき)架橋(かきょう)や、都市計画に(もと)づく幹線道路(かんせんどうろ)建設(けんせつ)可能(かのう)となった。

白神社前の道路工事

昭和25(1950)年
尾道町(おのみちちょう)現在(げんざい)の大手町二丁目)

紙屋町から鷹野橋(たかのばし)までの鯉城(りじょう)通りは、15~19mだった道幅(みちはば)が40mに広げられた。西側の拡幅工事(かくふくこうじ)と同時に、下水管の埋設工事(まいせつこうじ)が行われた。右の建物は、前方が日本銀行広島支店、後方が富国館(ふこくかん)

完成間近な稲荷大橋(いなりおおはし)

昭和25(1950)年 稲荷町(いなりまち)

稲荷橋(いなりばし)電車専用橋(せんようきょう)は、接続(せつぞく)する相生通りの拡幅(かくふく)(ともな)い、併用橋(へいようきょう)稲荷大橋(いなりおおはし)()()えられた。左が、爆風(ばくふう)で曲がったまま修復(しゅうふく)・利用されていた稲荷橋(いなりばし)電車専用橋(せんようきょう)。右が完成間近な稲荷大橋(いなりおおはし)

相生橋復旧工事(ふっきゅうこうじ)

昭和24(1949)年 鍛冶屋町(かじやまち)現在(げんざい)の本川町一丁目)

原爆(げんばく)の投下目標になった相生橋。欄干(らんかん)のほとんどが()()ばされ、歩道の一部が()き上がったまま利用されていたが、昭和24(1949)年に、ようやく本格的(ほんかくてき)補修(ほしゅう)が行われた。