きかくてんをみよう
(わたし)たちに(たく)される思い
-()せられた資料(しりょう)の中から-
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    きのこ雲の写真
原爆投下(げんばくとうか)の約15分後に、爆心地(ばくしんち)から約4kmの旧陸軍(きゅうりくぐん)船舶司令部(せんぱくしれいぶ)から撮影(さつえい)したもの。旧陸軍(きゅうりくぐん)写真班員(しゃしんはんいん)の木村権一さんの遺族(いぞく)から()せられました。
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    原爆(げんばく)被害状況(ひがいじょうきょう)写真(しゃしん)アルバム
旧陸軍(きゅうりくぐん)写真班長(しゃしんはんちょう)の田坂利徳さんが保管(ほかん)していたもの。写真班(しゃしんはん)の川原四儀さん、尾糠政美さんが撮影(さつえい)した写真をまとめたもの。
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アインシュタイン博士と篠原正瑛氏が交わした手紙
哲学者(てつがくしゃ)篠原正瑛氏が、国内で初めて原爆(げんばく)実態(じったい)報道(ほうどう)したアサヒグラフ(1952年8月6日号)に触発(しょくはつ)され、雑誌(ざっし)改造(かいぞう)」を通してアインシュタイン博士に公開質問状(こうかいしつもんじょう)を送り、これが契機(けいき)となって書簡(しょかん)交換(こうかん)しました。この手紙には、原爆(げんばく)をめぐって博士と篠原氏の(はげ)しいやりとりが記されています。寄贈者(きそうしゃ)は篠原信子さん。
戦前の広島市の映像(えいぞう)
1937(昭和12)年(ごろ)撮影(さつえい)された広島の貴重(きちょう)映像(えいぞう)撮影者(さつえいしゃ)は、当時広島高等学校の生徒だった金田民夫さん。寄贈者(きそうしゃ)は桑本栄子さん。
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体験記
国立広島(こくりつひろしま)原爆死没者(げんばくしぼつしゃ)追悼平和(ついとうへいわ)祈念館(きねんかん)には、事業期間中、473点の体験記・手記が()せられました。内容(ないよう)は、原爆被害(げんばくひがい)状況(じょうきょう)を記したもの、被爆者(ひばくしゃ)(れい)(ささ)げる(いの)り、平和への願いなどさまざまです。
   
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    罹災(りさい)証明書(しょうめいしょ)
今回の収集事業(しゅうしゅうじぎょう)には、罹災(りさい)証明書(しょうめいしょ)約40点が()せられました。この証明書(しょうめいしょ)は、被爆(ひばく)当日から警察官(けいさつかん)などによって交付されたもので、これによって食糧(しょくりょう)の配給を受けたり、無料で交通機関を利用することができました。原爆(げんばく)ですべてを失い、罹災(りさい)証明書(しょうめいしょ)のみが家族の形見代わりとなった人もいました。
広島平和記念都市(へいわきねんとし)建設記念(けんせつきねん)シール
復興財源(ふっこうざいげん)(とぼ)しい中、広島市を恒久平和(こうきゅうへいわ)実現(じつげん)する理想の象徴(しょうちょう)として建設(けんせつ)するため、「広島平和都市(ひろしまへいわとし)建設法(けんせつほう)」が制定(せいてい)されました。この記念シールは、市民から復興資金(ふっこうしきん)(つの)るため発行されたものです。寄贈者(きそうしゃ)吉持昭さんの(つま)購入(こうにゅう)したもの。
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  託された過去と未来
■被爆資料・遺影・体験記全国募集 新着資料より


●はじめに
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の概要-収集実績の解説
■今 明かされる思い
  あの日の記憶
  消えない悲しみ
  帰らぬ人の面影
■私たちに託される思い
  -寄せられた資料の中から
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の成果
  広島平和記念資料館への寄贈資料
●おわりに

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