■
私
(
わたし
)
たちに
託
(
たく
)
される思い
-
寄
(
よ
)
せられた
資料
(
しりょう
)
の中から-
49
50
51
きのこ雲の写真
原爆投下
(
げんばくとうか
)
の約15分後に、
爆心地
(
ばくしんち
)
から約4kmの
旧陸軍
(
きゅうりくぐん
)
船舶司令部
(
せんぱくしれいぶ
)
から
撮影
(
さつえい
)
したもの。
旧陸軍
(
きゅうりくぐん
)
写真班員
(
しゃしんはんいん
)
の木村権一さんの
遺族
(
いぞく
)
から
寄
(
よ
)
せられました。
52
原爆
(
げんばく
)
被害状況
(
ひがいじょうきょう
)
写真
(
しゃしん
)
アルバム
旧陸軍
(
きゅうりくぐん
)
写真班長
(
しゃしんはんちょう
)
の田坂利徳さんが
保管
(
ほかん
)
していたもの。
写真班
(
しゃしんはん
)
の川原四儀さん、尾糠政美さんが
撮影
(
さつえい
)
した写真をまとめたもの。
53
54
アインシュタイン博士と篠原正瑛氏が交わした手紙
哲学者
(
てつがくしゃ
)
篠原正瑛氏が、国内で初めて
原爆
(
げんばく
)
の
実態
(
じったい
)
を
報道
(
ほうどう
)
したアサヒグラフ(1952年8月6日号)に
触発
(
しょくはつ
)
され、
雑誌
(
ざっし
)
「
改造
(
かいぞう
)
」を通してアインシュタイン博士に
公開質問状
(
こうかいしつもんじょう
)
を送り、これが
契機
(
けいき
)
となって
書簡
(
しょかん
)
を
交換
(
こうかん
)
しました。この手紙には、
原爆
(
げんばく
)
をめぐって博士と篠原氏の
激
(
はげ
)
しいやりとりが記されています。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
は篠原信子さん。
戦前の広島市の
映像
(
えいぞう
)
1937(昭和12)年
頃
(
ごろ
)
に
撮影
(
さつえい
)
された広島の
貴重
(
きちょう
)
な
映像
(
えいぞう
)
。
撮影者
(
さつえいしゃ
)
は、当時広島高等学校の生徒だった金田民夫さん。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
は桑本栄子さん。
55
55
55
体験記
国立広島
(
こくりつひろしま
)
原爆死没者
(
げんばくしぼつしゃ
)
追悼平和
(
ついとうへいわ
)
祈念館
(
きねんかん
)
には、事業期間中、473点の体験記・手記が
寄
(
よ
)
せられました。
内容
(
ないよう
)
は、
原爆被害
(
げんばくひがい
)
の
状況
(
じょうきょう
)
を記したもの、
被爆者
(
ひばくしゃ
)
の
霊
(
れい
)
に
捧
(
ささ
)
げる
祈
(
いの
)
り、平和への願いなどさまざまです。
58
59
60
61
62
63
罹災
(
りさい
)
証明書
(
しょうめいしょ
)
今回の
収集事業
(
しゅうしゅうじぎょう
)
には、
罹災
(
りさい
)
証明書
(
しょうめいしょ
)
約40点が
寄
(
よ
)
せられました。この
証明書
(
しょうめいしょ
)
は、
被爆
(
ひばく
)
当日から
警察官
(
けいさつかん
)
などによって交付されたもので、これによって
食糧
(
しょくりょう
)
の配給を受けたり、無料で交通機関を利用することができました。
原爆
(
げんばく
)
ですべてを失い、
罹災
(
りさい
)
証明書
(
しょうめいしょ
)
のみが家族の形見代わりとなった人もいました。
広島
平和記念都市
(
へいわきねんとし
)
建設記念
(
けんせつきねん
)
シール
復興財源
(
ふっこうざいげん
)
の
乏
(
とぼ
)
しい中、広島市を
恒久平和
(
こうきゅうへいわ
)
を
実現
(
じつげん
)
する理想の
象徴
(
しょうちょう
)
として
建設
(
けんせつ
)
するため、「広島
平和都市
(
ひろしまへいわとし
)
建設法
(
けんせつほう
)
」が
制定
(
せいてい
)
されました。この記念シールは、市民から
復興資金
(
ふっこうしきん
)
を
募
(
つの
)
るため発行されたものです。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
吉持昭さんの
妻
(
つま
)
が
購入
(
こうにゅう
)
したもの。
64
託された過去と未来
■被爆資料・遺影・体験記全国募集 新着資料より
●はじめに
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の概要-収集実績の解説
■今 明かされる思い
あの日の記憶
消えない悲しみ
帰らぬ人の面影
■私たちに託される思い
-寄せられた資料の中から
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の成果
広島平和記念資料館への寄贈資料
●おわりに
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