きかくてんをみよう
(わたし)たちに(たく)される思い
平成17年度の新着(しんちゃく)資料(しりょう)をご紹介(しょうかい)します。なお、平成16年度に寄贈(きぞう)を受けました資料(しりょう)については、平成17年7月から平成18年7月まで、広島平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)地下(ちか)展示室(てんじしつ)にて展示公開(てんじこうかい)しました。
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■ブラウス■
松田順子さん(当時13(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1700mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):妹 数村澄江さん


広島女子商業学校1年生の松田順子さんは、鶴見橋(つるみばし)付近(ふきん)建物(たてもの)疎開(そかい)作業現場(さぎょうげんば)被爆(ひばく)饒津(にきつ)神社まで()げて動けなくなった順子さんを、兄の博夫さんが連れて帰りましたが、8月24日に()くなりました。基町(もとまち)被爆(ひばく)し9日に()くなった父親を「お父さん待って」と()んだのが最後の言葉でした。これは、順子さんが当日身につけていたブラウスです。
■ガラス(せい)の置物■
平田正子さん(当時14(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1700mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):兄 平田照昌さん


広島女子商業学校2年生の平田正子さんは、鶴見橋(つるみはし)付近(ふきん)建物(たてもの)疎開(そかい)作業現場(さぎょうげんば)被爆(ひばく)。全身に大やけどを負いながら、牛田町の自宅(じたく)にたどり着きましたが、家は全壊(ぜんかい)し薬もなく、8月14日に()くなりました。死の直前、「お兄ちゃんはいいねえ」と言ったのを、照昌さんは今も(わす)れることができません。この置物は、正子さんが自宅(じたく)(つくえ)(かざ)っていたものです。
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■つぼ■
津田静夫さん(当時57(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1700mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):子の(つま) 津田政美さん


津田静夫さんは、横川町の自宅(じたく)建物(たてもの)疎開(そかい)の対象となったため屋根瓦(やねがわら)を外す作業をしている時に被爆(ひばく)。近所の親せき宅(しんせきたく)避難(ひなん)しましたが、その年のうちに()くなりました。梅干(うめぼし)()けるのに利用していたこのつぼは、貴重品(きちょうひん)一緒(いっしょ)()めていたのを、終戦後()(あと)から()()したものです。
観音像(かんのんぞう)レリーフ■
石橋脩三さん(爆心地(ばくしんち)から約900mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):孫 石橋修一さん

県立広島病院院長の石橋脩三さんは、院長室で被爆(ひばく)し、倒壊(とうかい)した建物の下敷(したじ)きとなりましたが、何とか脱出(だっしゅつ)しました。その後、万一に(そな)えて機材や薬品を疎開(そかい)させていた古田国民学校などで救護活動(きゅうごかつどう)を行いました。これは、脩三さんが院長室に(かざ)っていたもので、高熱のため()けている部分があります。
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■ゲートル■
小原義博さん
(当時12(さい) 爆心地(ばくしんち)から約600mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):妹 坂井玉江さん


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■体内から摘出(てきしゅつ)されたガラス(へん)
谷重静枝さん
(当時30(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1020mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):子 小林増之さん

県立広島第二中学校1年生の小原義博さんは、中島新町(なかじましんまち)建物疎開(たてものそかい)現場(げんば)被爆(ひばく)。父親が毎日(さが)しましたが、見つけることはできませんでした。このゲートルは西蟹屋(にしかにや)町の自宅(じたく)にあったもので、当時10(さい)だった妹の玉江さんには、ゲートルを()く義博さんの姿(すがた)が大人っぽく、今も印象に残っています。   勤務先(きんむさき)の広島市役所で被爆(ひばく)した谷重静枝さんは、爆風(ばくふう)に飛ばされ、とっさに防空頭巾(ぼうくうずきん)(かぶ)りましたが、体にたくさんのガラス(へん)()さりました。芸備線(げいびせん)(づた)いに吉田(よしだ)町(市外)の実家まで避難(ひなん)し、5・6年後に手術(しゅじゅつ)を受け、胸部(きょうぶ)からこのガラス(へん)を取り出しました。

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■学生服■
宇根弘哲さん
(当時12(さい) 被爆(ひばく)した場所不明)
寄贈者(きそうしゃ):姉 近重良恵さん

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■変形したガラスびん■
秋田文治さん(当時15(さい))
寄贈者(きそうしゃ)(つま) 秋田澄子さん
県立広島第一中学校1年生の宇根弘哲さんは、八本松(はちほんまつ)町(市外)の自宅(じたく)から学校へ向かう途中(とちゅう)被爆(ひばく)。家族は弘哲さんを(さが)しましたが、見つけることはできませんでした。6日の朝、遠くに汽車が来るのを見て、ゲートルも()きかけのまま飛び出していったのが、弘哲さんの最後の姿(すがた)でした。母親は、弘哲さんの学生服を大切に保管(ほかん)していました。   県立廿日市工業(はつかいちこうぎょう)学校の生徒だった秋田文治さんは、被爆(ひばく)翌日(よくじつ)から救護部隊(きゅうごぶたい)に動員され、本川(ほんかわ)国民学校を中心に約1週間、活動に従事(じゅうじ)しました。その(さい)持ち帰ったガラスびんを、文治さんは()くなるまで大事にしていました。

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印鑑(いんかん)
山香サトさん
(当時50(さい) 爆心地(ばくしんち)から約300mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):子 山香英三さん


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■重なったまま固着した陶器(とうき)
幸本由雄さん
(当時18(さい) 爆心地(ばくしんち)から約900mで被爆(ひばく)) 寄贈者(きそうしゃ)(おとうと) 佐々木忠久さん
山香サトさんは、材木(ざいもく)町の自宅(じたく)被爆(ひばく)。息子の英三さんは、知らせを聞いて東京から広島へ帰り、13日に兄の嘉夫さんと再会(さいかい)しました。嘉夫さんはすでにサトさんの遺骨(いこつ)を拾ってきていましたが、英三さんは、自宅(じたく)()(あと)にあった金庫からこの印鑑(いんかん)を持ち帰りました。サトさんが仕事で使っていたもので、英三さんは、形見として大切に保管(ほかん)してきました。   大手(おおて)町の職場(しょくば)被爆(ひばく)した幸本由雄さんは、倒壊(とうかい)した社屋から脱出(だっしゅつ)。黒い雨に打たれながら目の前の川へ()()み、必死に泳いで大芝(おおしば)町の自宅(じたく)へたどり着きました。高熱、下痢(げり)吐血(とけつ)などの症状(しょうじょう)(あらわ)れ、一時は死を覚悟(かくご)しましたが、回復(かいふく)することができました。この陶器(とうき)は、その後()(あと)で見つけたものです。

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(つま)()てた手紙■
銭谷為一さん(当時37(さい))
寄贈者(きそうしゃ)(つま) 銭谷君代さん


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(かわ)ベルト■
寄贈者(きそうしゃ):玉岡勤さん
警察(けいさつ)勤務(きんむ)していた銭谷為一さんは、大手(おおて)町付近で被爆(ひばく)。産後で実家の庄原(しょうばら)にいた君代さんは一週間後に夫の死を知り、周囲の反対を押し切(おしき)って(さが)しに出かけましたが、見つけることはできませんでした。その年7月13日付けで出された為一さんからの手紙を、君代さんは形見として大切に保管(ほかん)していました。
  戦争中軍隊に所属(しょぞく)していた玉岡勤さんは、30年位前、仕事先でこのベルトを見つけ、軍用品であることに気付きました。()てるに(しの)びなく持ち帰りましたが、()げ方や放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)結果(けっか)から、持ち主は背後(はいご)から熱線を浴び黒い雨に打たれたものと推定(すいてい)されます。

  託された過去と未来
■被爆資料・遺影・体験記全国募集 新着資料より


●はじめに
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の概要-収集実績の解説
■今 明かされる思い
  あの日の記憶
  消えない悲しみ
  帰らぬ人の面影
■私たちに託される思い
  -寄せられた資料の中から
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の成果
  広島平和記念資料館への寄贈資料
●おわりに

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