きかくてんをみよう
保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
終戦後、原爆(げんばく)ドームは、保存(ほぞん)()(こわ)しの間で結論(けつろん)がつかず、爆心地(ばくしんち)に放置されていた。1960年代、()(こわ)しの声を(おさ)えて原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)の声が()()がり、国の内外から()せられた募金(ぼきん)により、保存(ほぞん)工事(こうじ)が行われる。前後して、元住民の手による爆心地(ばくしんち)復元(ふくげん)運動(うんどう)が始まった。被爆者(ひばくしゃ)が自らの手で原爆(げんばく)被害(ひがい)復元(ふくげん)し、後世へと残していく。小さな活動の芽は、一人一人の市民の参加により、やがて大きなうねりとなった。
原爆(げんばく)ドームを残そう
  61「広島折鶴(おりづる)の会」の()びかけ
1960(昭和35)年8月6日
平和記念公園

原爆(げんばく)ドームの存廃(そんぱい)について結論(けつろん)が出ない中、映画(えいが)千羽鶴(せんばづる)」の制作(せいさく)をきっかけに作られた子供(こども)たちの団体(だんたい)「広島折鶴(おりづる)の会」は、いち早く原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)(うった)えた。写真は広島折鶴(おりづる)の会などが参列した「原爆(げんばく)の子追悼(ついとう)のつどい」。保存(ほぞん)運動(うんどう)のきっかけとなった楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記が朗読(ろうどく)された。

  62原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)(うった)えるビラ
1960(昭和35)年に広島折鶴(おりづる)の会が作ったもの。
  63楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記
楮山(かじやま)ヒロ子さん(当時1(さい))は、平塚町(ひらつかちょう)自宅(じたく)被爆(ひばく)。15年後に白血病で()くなった。残された日記には、「あの痛々(いたいた)しい産業(さんぎょう)奨励館(しょうれいかん)(原爆(げんばく)ドーム)だけが、いつまでも、(おそ)るべき原爆(げんばく)を世に(うった)えてくれるだろう」(要旨(ようし))と記されている。

65保存(ほぞん)から世界遺産(せかいいさん)
1993(平成5)年10月1日
平和記念公園

1992(平成4)年、日本のユネスコの世界遺産(いさん)条約(じょうやく)加盟(かめい)を機に、原爆(げんばく)ドームを世界遺産(いさん)にという声があがった。市民団体(だんたい)が全国的な署名(しょめい)運動(うんどう)展開(てんかい)。1996(平成8)年、原爆(げんばく)ドームは世界遺産(いさん)一覧表(いちらんひょう)に登録される。写真はドーム前に積み上げられた署名(しょめい)
  64原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)募金(ぼきん)()びかけるポスター
1966(昭和41)年
1964(昭和39)年、11の平和団体(だんたい)代表(だいひょう)濱井(はまい)市長(しちょう)原爆(げんばく)ドームの永久(えいきゅう)保存(ほぞん)要請(ようせい)。高まる市民の声に()され、1966(昭和41)年、広島市議会は原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)を要望する決議を行った。以後、国の内外から()せられた募金(ぼきん)で3度の保存(ほぞん)工事(こうじ)が行われた。

失われた街()みの復元(ふくげん)

66爆心地(ばくしんち)復元(ふくげん)運動(うんどう)
1968(昭和43)年10月
1966(昭和41)年、NHK広島中央放送局が放映(ほうえい)した番組「カメラリポート・爆心(ばくしん)半径(はんけい)500メートル」をきっかけに、失われた爆心地(ばくしんち)の街()みを地図にするという運動が始まった。運動は多くの市民に(ささ)えられ、広島大学原爆(げんばく)放射能(ほうしゃのう)医学(いがく)研究所(けんきゅうじょ)、広島市へと広がった。


68復元(ふくげん)された爆心(ばくしん)直下(ちょっか)の街()みと現在(げんざい)の平和記念公園
1972(昭和47)年に作成した地図に建物(たてもの)疎開(そかい)前の状況(じょうきょう)を追加して、2001(平成13)年に新たに作成した平和記念公園一帯の復元(ふくげん)地図(ちず)原爆(げんばく)投下(とうか)前の地図(黒で表示(ひょうじ))に、現在(げんざい)の平和記念公園内の主な施設(しせつ)(赤で表示(ひょうじ))を重ねている。
 
67木挽町(こびきちょう)復元(ふくげん)
1992(平成4)年7月12日 持明院
市の調査(ちょうさ)一応(いちおう)終了(しゅうりょう)した後も、市民による復元(ふくげん)運動(うんどう)は続いた。写真は、木挽町(こびきちょう)の街()みを復元(ふくげん)しようと集まった元住民。1995(平成7)年、9年がかりで地図が完成した。





10フィートのフィルムから
6910フィート映画(えいが)運動(うんどう)の始まり
1980(昭和55)年7月
東京新宿 紀伊國屋(きのくにや)ホール

1980(昭和55)年、「子どもたちに世界に!被爆(ひばく)の記録を(おく)る会」による平和運動が始まった。この運動は、市民一人一人が10フィート分の製作(せいさく)基金(ききん)(3,000円)を出しあって、アメリカ国立公文書館に(ねむ)被爆(ひばく)()の記録フィルムを入手し、原爆(げんばく)記録(きろく)映画(えいが)製作(せいさく)上映(じょうえい)するというユニークなものだった。
    70製作(せいさく)された3部作
1982(昭和57)年8月までに()せられた募金(ぼきん)は、全国で1億8000万円に達し、反核(はんかく)・平和の記録(きろく)映画(えいが)製作(せいさく)された。完成後、(かく)地域(ちいき)映画(えいが)上映(じょうえい)する運動が起こった。

  廃虚(はいきょ)の中に立ち上がる
平和記念資料館(しりょうかん)とヒロシマの歩み

 ●1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
 ●1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物
 ●1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
 ●1991~ ヒロシマの心を世界に
 ●世界のまなざし ヒロシマを(おとず)れた人々
 ●データで見る資料館(しりょうかん)
 ●ヒロシマの60年
 ●保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
 記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-

 おわりに

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