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12●入館料は大人20円
1955(昭和30)年8月23日 広島平和記念資料館
開館したばかりの資料館の展示は、コンクリートの床に直接展示ケースや写真パネルが置かれただけの簡素なものだった。展示資料はまだ少なかったが、開館初年度の入館者数は、11万人を超えた。
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13●ガラス張りの展示室
広島平和記念資料館
ガラス張りの展示室は、外から中の資料が眺められた。皮肉をこめて「鳥かご」と呼ばれることもあった。
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15●被爆資料を見つめる来館者
1957(昭和32)年4月 広島平和記念資料館
展示の仕方は洗練されているとは言えなかったが、一つ一つの資料には見る人を引きつける力強さがあった。
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14●開館時は8人の職員で
1956(昭和31)年ごろ 広島平和記念資料館
チケットやパンフレットの販売は事務員が行い、宿直も守衛だけでは人数が足らず、事務員が加わった。写真は開館時の職員で、中央が長岡館長。
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16●被爆のこん跡を調査する
安佐郡佐東町川内(現在の安佐南区川内)
少ない人員ながら、調査も行われた。写真は被爆馬の調査の様子。爆心地から1,300mの横川町で被爆したこの馬は、1958(昭和33)年の広島復興大博覧会で一般公開され、後にはく製となって館内で展示された。
18●「人影の石」を保存する
1971(昭和46)年2月2日 広島平和記念資料館
1971(昭和46)年、25年にわたり街角から原爆の悲惨さを伝えてきた「人影の石」が、住友銀行広島支店の改築にともない、資料館に寄贈された。写真は展示室にクレーンで運び込まれる「人影の石」。
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17●復興博の会場として
1958(昭和33)年4月1日
開館3年目の1958(昭和33)年4月、平和記念公園などを会場に、広島復興大博覧会が開かれ、資料館も第1会場の原子力科学館として使われた。
19●展示解説テープと音声ガイド
左 以前の展示解説テープ 右 現在の音声ガイド
1964(昭和39)年、海外から訪れる来館者のために、英語の解説テープの貸し出しが始まった。その後、日本語・中国語などを追加、平成14(2002)年に現在の音声ガイドに更新し、計17ヵ国語となった。
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20●爆心直下の街並みを展示する
1972(昭和47)年7月9日 広島平和記念資料館
1972(昭和47)年、焼け野原となった平和記念公園一帯(旧中島地区)の被爆前の地図が資料館に寄贈された。失われた街を復元する作業は、NHK広島中央放送局と広島大学原爆放射能医学研究所などの手により、被爆から20年以上経った1966(昭和41)年に始まった。写真は公開された地図で我が家を捜す旧町民。
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21●対話ノート
1970(昭和45)年から館内に置いた対話ノートは、35年間で928冊[2005(平成17)年5月31日現在]になった。書き込みは、修学旅行生、親子連れ、外国人など、年齢も言語もさまざま。変わらない平和への思いがつづられる。
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