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3-2-6-1N家の崩壊

 

病苦と極貧の谷間で 1951年(昭和26年)8月6日
真夏だというのに戸を閉きった暗い部屋に、Nさんは座っていた。


こらえきれぬ痛み
働らかねば餓死に追い込まれ、
働けば耐たえがたい病苦にのたうちまわり……
この正視しがたい悪循環がいつ果てるともなく続いたのである。

 

家を棄てる子どもたち
1957年(昭和32年)、
Nさんはどの病院からも見離されて、わが家に帰ってきた。
退院後のNさんは、次第に自棄的になった。
そんな暗い家庭を子どもたちは棄て、家に寄りつかなくなった。


壊れていく家族
父親が苦しみだしても、誰にもどうすることもできなかった。
1952年(昭和27年)以来、9度病院を転々とし、
2度の大手術をしたが、病状は好転せず、
Nさんは市役所からその病状さえ疑がわれ、ついには精神異常者にされた。


治癒の望み
1960年(昭和35年)、Nさんは原爆病院に入院できることになった。
ボロ布団を持って入院し、不当な扱いを受けた辛つらい思いを再び父にさせまいと、
長女は借金して新しい布団を作り、祖母は息子のため新しい寝間着を買った。


絶望の退院
だが、Nさんは入院1カ月後に、
何の治療も受けずに白いギブスをひとつ抱だいて、
「ほかに治療法がないからこれに入って寝ねておれといわれた」
と憤然とわが家に帰って来た。

 

N家の崩壊の終焉 1960年(昭和35年)

「もうどうしていいか分かりません」と長女は途方にくれた。
その後のNさんはもう生きる気力を失ったようだった。

 

1967年(昭和42年)1月1日、
Nさんは両足の太ももに百数十の傷跡を残して亡くなった。
22年間の長い闘病生活の中で、病苦に耐え切れぬとき、
その悲しみから逃れるために
我と我が身をカミソリで切り裂さいた傷跡だった。
―N家の崩壊はその父親の死によってはじめて、
終止符が打たれた。

 

思うように動かない体を抱えて
仕事を失なった多くの被爆者は、その日暮ぐらしの生活にあえいでいた。
「原爆症はうつる」と嫌われたり、
少し働いてもすぐ疲れて仕事を休むため「ブラブラ病」と冷たい目で見られるなどの、
原爆症に対する無理解に被爆者は苦しんだ。

 

福島菊次郎『ピカドン―ある原爆被災者の記録』東京中日新聞、『原爆と人間の記録』社会評論社より

本館 被爆の実相 3 被爆者

3-2-6 N家の崩壊内の資料